ヨハネによる福音書 4章13~14節

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4章13~14節)

恵みをいただいて神様の御前で傷のない完全な者でありつづけようとする人は誰でも、この泉から汲み上げて器を満たし、常に湧き溢れる永遠の命の水によってその渇きをいやさなければなりません。キリストの完全性には量的な限度も終わりもありません。あなたがたは遠慮せずに汲み上げて、喜びの心をもって飲みなさい。この充溢から永遠の命の水が湧き出るからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4章14節)

確かにあなたは、自分の罪のせいで倒れました。
しかし、それでもあなたは疑ってはなりません。
あなたを打ったお方は、
またあなたを助けることができるし、
また助けたいと望んでおられるからです。
ですから、
人の助けを求めたりせず、主なる神様の御許に来なさい。
神様は確かに、あなたをその罪の故に打たれました。
しかし、神様は
「あなたの神」であることを止められたわけではありません。
神様があなたを罰し、御言葉によって叱責なさる場合には、
背を向けたりせず、自分の顔を神様に向けなさい。
神様の御言葉にしっかりつかまり、
神様が命じられることをよく聴いて、神様に従いなさい。
そうすれば、
神様は怒りを鎮め、罰を緩めてくださるばかりか、
あなたの罪を赦し、あなたに永遠の宝を与えてくださいます。

私の助けと救いは主から来ます。
なぜでしょうか。
私は人間を
自分の避けどころや慰めや助けや救いとはしなかったからです。
かりにその人がどれほど偉大で富裕であったとしてもです。
私は人に心を委ねなかったし、期待もしませんでした。
私は、
すべての幸福と救いをもたらしてくださる神様に、
自分を委ねたのです。

 

聖書から、
キリストより少ないものを見いだした時にはいつも、
私の魂は満たされませんでした。
聖書から、
キリストよい多いものを見いだした時にはいつも、
私はかつてなかったほどに貧しくなりました。
ですから、私が確実に言えるのは、
神様の聖霊様は、
イエスキリスト、
しかも十字架につけられたイエスキリスト以外のことについては
何も知らないし、
また知りたいとも思われない、
ということです。

キリスト教の教えの最初の部分は、
心で罪を悔い己を知ることです。
教えの次の部分は、
「救いにあずかりたい人は、
救いは行ないによってはえられず、
私たちが御子において活きるために
神様が独り子を世に遣わされたおかげである、
と知ることです。

私は、聖書を研究することによって、学識を得て、
他の人に説教するほどまでになるかもしれませんが、
それは私自身を少しも助けてはくれません。
もしもキリストを見いださず知りもしないならば、
私は、救いも永遠の命も知らないままだからです。
そう、私は苦しい死を見いだすことになります。
人間は、
イエス様の御名以外の他の名によっては
決して救われることがないように、
愛する私たちの神様はお決めになったからです。

神様は、
私が傷ついているときには「軟膏」、
私が病気のときには「偉大な医者」、
私が貧しいときには「富」、
私が飢えているときには「命のパン」、
私が喉が渇いているときには「命の水」です。
神様は、
私が裸のときには私に服を着せてくださいます。
神様は、
私が暗闇の中にいるときに「私の太陽」、
私が揺らいでいるときに「私の岩」、
私が悩みで心が荒れ狂っているときに「私の静かな港」、
私が責められているときには「私の弁護者」です。
あらゆる状況において、
神様は私のすべての必要を満たしてくださいます。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者