ヨエル書 3章5節

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル書 3章5節より)

まずなによりもこの「皆ひとりひとり」という無制限の言葉に注目しましょう!それは誰をも救いの外へ閉め出したりはしません。この救いを神様は、御自分に助けを求めて叫ぶ者に御自分の自由意志によりただで与えることを約束しています。私たちはこのことを知らなければなりません。人間の心なるものは、神様の御言葉に信頼しない間は、「神様は誰を憐れんでくださるか」という問題について危険な考えを思いつくものだからです。この「ヨエル書」にある約束は神様の憐れみを例外なくすべての人に提供しています。また、神様の御言葉に仕える者には皆ひとりひとりに罪の赦しを宣言するように、命令を受けています。
(マルチン・ルター、宝石箱)


この御言葉に、私たちの救いのすべてはかかっています。
そのように素直に理解するべきです。
「救われる」と預言者ヨエルは言います。
それは、人が罪や死や地獄からあがないだされることです。
人はこうして、
この世での惨めな人生を通って、永遠の命へと入って行きます。
それはひとえに聖霊様のおかげです。
預言者ヨエルによれば、
聖霊様はあらゆる肉の上に注ぎだされており、
人が主の御名を呼ぶようにと働きかけてくださいます。
これはパウロも等しく強調したことです。
すなわち、
人は、律法の行いなしに、信仰を通してのみ義とされるのです。
なぜなら、
「主の名を呼び求めること」は「信じること」と同じだからです
(ローマの信徒への手紙 10章)。
まず第一に、
福音を宣教する人々を派遣しなければなりません。
この派遣によって福音が他の人々に聞かれるようになります。
福音を聴くことによって、信仰が与えられます。
信仰は、救いを求めて主の御名を呼ぶ心を起こします。
そして、この呼び声は救いをもたらします。
キリストの王国は、
神様の御言葉に基づく信仰の王国であり、
そこで、私たちは、
自分の力によってではなく、
私たちがまだ敵であったときから
私たちを愛してくださっている
神様の「自由な恵み」によって、
救われるのです。
また、神様は、
私たちの心に聖霊様を送って、
私たちが救いを求めて御名を呼ぶように
働きかけてくださいます。
まさにそれゆえに、
私たちは救われるようになるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


私たちはこの世での人生の間、
主を面と向かって見ることができません。
それゆえに、
主の「御名」と預言者は言っているのです。
私たちはこの世では「信仰の王国」の中で活きています。
神様の御名とは神様の御言葉のことです。
それを私たちは聴くのであり、
そこに私たちの富があります。
死ぬ時までは、
これを超えるものを何も私たちはもっていません。
しかし、死んだ後で、
私たちは主を面と向かって見ることになります。
「皆」という言葉に特に注目しましょう。
神様は、御自分を呼び求める者に対して、
自由な御意志により無償で約束してくださった救いから、
誰一人除外なさらないのです。
このことを知っておくのは、
御言葉の根拠なしに、
御言葉に反して吹聴されている
「恵みに関する選び」という、
あの危険な考え[1]を斥けるためにも大切です。
神様は私たちに御言葉を送ってくださるので、
誰あろう私たちこそが
恵みによって選ばれているのです。
私たちは、
神様がはっきりくださっている約束に信頼し、
救いを求めて神様の御名を呼び、
自分は救われる、と確信をもつべきです。
「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
あなたの御名の栄光を輝かせてください。
御名のために、わたしたちを救い出し
わたしたちの罪をお赦しください。」(詩編 79編9節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

[1] 人間的な基準によって、ある人は神様の恵みにあずかっているが、ある人はあずかっていない、と判別する考え方をさしているものと思われます(訳者注)。

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者