ローマの信徒への手紙 8章18節
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(ローマの信徒への手紙 8章18節)
もしも私たちがこの栄光を見るならば、私たちはさぞ立派に耐え忍ぶ殉教者となれることでしょう!もしも川の向こう岸に金貨のつまった箱をもった男が立っていて、「川を泳ぎ渡る勇気のある者は、この金貨をもらえるぞ!」と叫んだとすれば、すぐにでも真剣な水泳競争が始まることでしょう!
(マルチン・ルター、宝石箱)
どんな反対を耐えなければならないとしても、
どんな十字架を担いでいかなければならないとしても、
それはすべて軽く好ましいものにかわります。
キリストが担わせるくびきは、私たちにぴったり合っており、
キリストがくださる荷は、軽いからです
(マタイによる福音書 11章30節)。
罪が赦され、
それによって良心の平安が与えられた今、
クリスチャンは他のあらゆることを容易に耐えることができます。
今や、すべてがクリスチャンにとって
心から好ましく喜ばしいものにかわっているからです。
それゆえクリスチャンは、
たとえ肉的にはさまざまな困難が伴うとしても、
霊的にはすべてを喜んで行い、すべてを耐えるのです。
ところが、人が自分の義によって生きる場合には、
すべての仕事や苦しみは、その人にとって
堪えようもないほど重く苦しいものにかわってしまいます。
その人はそれらのことを、やる気もなく嫌々ながら行うからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)