ガラテヤの信徒への手紙 2章17節
もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。 (ガラテヤの信徒への手紙 2章17節)
パウロが言いたいのは次のことです。
私たちがキリストにあって義とされるのが本当だとしたら、
私たちは律法によって義とされるべき罪人ではありえません。
もしもそれが本当ではなく、逆に、
私たちは律法やその行いによって義とされなければならないとしたら、
私たちがキリストを通して義とされることはありえなくなります。
私たちは、
キリストを通しては義とされないのか、
それとも、
律法を通しては義とされないのか、
そのどちらか一方が間違っているのです。
しかし、
私たちはキリストを通して義とされるのであり、
律法を通してではありません。
これについては証拠を挙げることができます。
もしも人が義とされるために律法を守ることが必要だとしたら、
キリストにおいて義なる人々は実は義ではなく、
ほかにまだ人を義とする律法が必要になります。
すなわち、
もしもキリストを通して義とされた人々が、
さらに律法を通して義とされる必要があるのなら、
キリストは律法の設定者であり罪に仕える者にほかならなくなります。
その場合には、
キリストにあって義とされた人は、実は義とされておらず、
さらに律法の義が必要になります。
しかし、
私たちは本当にキリストにあって義とされているのです。
なぜなら、福音は、
人は律法ではなくキリストを通して義とされる、
と教えているからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)