マタイによる福音書 23章37節
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(マタイによる福音書 23章37節)
神様の裁きに耐えようとする者にとっては、信じて、恵みのはたらきを心の中で経験するだけでは足りません。というのは、その人は、自分自身の中から見出だせるような、どのようなことにも頼ることができないからです。その人はキリストの義に頼らなければなりません、そして、神様の裁きの時に、それがその人の守りでなければなりません。なぜなら、キリストの義は、あらゆる栄光の中にあって、神様の御前に永遠にありつづけるからです。詩編にこう書かれている通りです、「この方の義は永遠にありつづけます」(詩編111編3節)。
このことに頼る人は、そっと隠れてこの義の守りの中にもぐりこみ、この義が守ってくれることを疑わずに信じます。そしてそのとおりになるのです。その人は守りを得ます、しかしそれは、自分自身や自分の信仰のおかげではなく、その人が避けどころを求めた、キリストとキリストの義のおかげなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)