ヨハネによる福音書 14章12節

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 (ヨハネによる福音書 14章12節)

木が実をつけるのと同じような自然さで、よい行いが信仰からでてきます。
信仰者は、よいことを行うように要求されているわけではなく、
自分からすすんでそれを行うのです。
ちょうど、
信仰者が命令なしに
ひとりでに寝たり、食べたり、飲んだり、服を着たり、
見たり、聞いたり、話したり、歩いたり、立ったりするように。

人がよい行いをし、助け、諭し、ほかの人たちに分け与えなければならない、
というのは本当です。
しかし、それらの行為のゆえに
その人が「クリスチャン」と呼ばれるわけではありません。
なぜなら、
人が白いから白人と呼ばれ、黒いから黒人と呼ばれ、
偉大だから偉人と呼ばれるのと同じように、
私たちもまた、キリストのゆえにクリスチャンと呼ばれるのです。
このキリストが私たちのなかにおられ、
このキリストから私たちはすべてのよいものをいただいています。
もしも私がキリストのゆえにクリスチャンと名づけられているのならば、
自分自身の行いのゆえに私がクリスチャンと呼ばれるのではないことは、
明らかです。
これからわかるのは、
誰も自分の仕事のゆえにクリスチャンになるわけではない
ということです。

キリストが
何かを行われたり、苦しまれたりすることを見たり聞いたりする時、
キリストを、そのわざと苦しみとを全部含めて、
「あなた自身のもの」とみなしなさい。
そうすれば、あなたは、
あたかも自分で一切を行ったかのように、
キリストとみわざすべてに確信を持って頼ることができます。

「賜物」としてのキリストは、
あなたの信仰の栄養であり、あなたをクリスチャンにします。
「模範」としてのキリストは、
あなたを行いへと訓練します。
行いがあなたをクリスチャンにするのではなく、
すでにクリスチャンとされたあなたから行いが出てくるのです。
賜物と模範が互いに遠く隔たっているように、
信仰と行いもまた互いに遠く隔たっています。
信仰には何も「自分のもの」というのがありません。
あるのはキリストのみわざと命だけです。
それとは反対に、
行いには何かあなた自身から出てくるものがあります。
しかし、
それは「あなた自身のもの」であってはなりません。
あなたの行いは「隣人のもの」でなければならないのです。

よい行いや慈善行為は、
外に見せびらかさないで、
なされなければなりません。
よいことは、
密かに、
報酬を一切求めず、
神様の栄光のゆえに、
私たちの隣人の最善を考えて、
行うべきです。

よい行いは、どこからそれがわかるのでしょう。
「それには名前がない」ということからです。
こうして、何の区別も生じず、
どれかの行いを特別扱いすることも起こりません。
あなたは、何かを行い、
また、何かをやらずに済ませて生きています。
あなたは、できうるかぎりの一切のことによって、
隣人に尽くさなければなりません。
祈りや断食などだけが、
キリストがあなたのためにしてくださった行いではありません。
キリストは、あなたのために、
祈りと断食と他のあらゆる行いと苦しみと共に、
すべてを明け渡してくださったのです。
キリストには、
「あなたのもの」ではないものや、
あなたのためになされたのではないことは、
何もありません。
つまり、
あなたが施しをしたり祈ったりすることもまた、
あなたのよい行いではないのです。
そうではなく、
あなたが隣人のために自分をすっかり明け渡して、
隣人が必要としていることについて助けを差し伸べることこそが、
よい行いなのです。
施し、祈り、労苦、断食、助言、慰め、教え、
勧め、叱咤、弁護、衣服や食べ物の提供などを通して、
要するに、
その人のために苦しんで死ぬことによって、
あなたは隣人に仕えるのです。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者