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ヨハネの黙示録 21章6節
また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(ヨハネの黙示録 21章6節)
この井戸は涸れることがありません。それは恵みと真理に満ちており、どんなにたくさん汲んだとしても少しも減りません。私たちが皆一斉に汲んだとしても、空っぽになりません。それはいつでもあらゆる恵みと真理の永遠無限の泉、底のない井戸です。そこから汲めば汲むほど、それだけいっそう豊かに永遠の命へと途切れることなく流れ行く水が懇々と湧き出てくるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
テトスへの手紙 3章4~7節
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。(テトスへの手紙3章4~7節)
洗礼において私たちに与えられた神様の恵みを、パウロは大いに賛美しています。パウロは洗礼を、手や足だけではなく、からだ全体の洗いとみなしています。洗礼は人間全身をいっぺんにきれいにし、幸いな救いに与るものにします。この救いを与り受け継ぐために必要なのは、神様の恵みへの信仰だけです。それは、私たちが自分の善い行いによってではなく、ただただ恵みによって、救いに与り、神様の憐れみを永遠に愛し、純真に賛美し感謝し敬うようになり、また、栄光を求めて自分の能力に頼ったり自分で自分を助けようとしたりはしないようにするためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
テトスへの手紙 2章11~12節
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え(テトスへの手紙 2章11~12節)
神様の恵みは、偉大で強力です。恵みは、魂の中で何もしないで眠り込んだりしません。また、寝惚けた説教者たちがわめいているように、恵みを好き勝手に用いることもできません。そうではなく、恵みは、自分について告げ知らせ、人全体を、持ち上げ、運び、支え、自分に近づけ、形作り、柔軟にします。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章10~11節
律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章10~11節)
「義とされるためには律法が必要だ」と教える者は、キリストやキリストの恵みのみわざを否定して、神様を嘘つきにしてしまいます。なぜなら、律法はキリストについての約束を強く支え、「キリストは律法ではなく、恵みの王様である」ことを予言したからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ローマの信徒への手紙 11章6節
もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。(ローマの信徒への手紙 11章6節)
私たちの救いは、律法と福音の両方に基づくことはできません。私たちは、信仰を通して義とされ、その結果律法の義を失うか、あるいは、律法を通して義とされ、恵みと信仰の義を失うか、そのどちらかです。恵みを失い律法に頼ることは、恥ずべき不幸な喪失です。しかし、律法を失い恵みに頼ることは、それとは逆に、救いの幸せに満ちた喪失です。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ローマの信徒への手紙 3章10(後半)~12節
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。(ローマの信徒への手紙 3章10(後半)~12節)
神様は義や正しさや命や力を誰からも見出されません。神様がこれらすべてを私たちに与えてくださるのです。あなたに義や命や力や強さが欠けているときに、疑いにとらわれてはなりません。あなたは自分の悪さをより深く知れば知るほど、自分の目にあなた自身がより悪く映れば映るほど、それだけ速やかに神様はあなたに恵みを与えてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 1章16節
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネによる福音書 1章16節)
私たちは何を受け取るのでしょうか。「恵みの上に、更に恵みを」いただくのです。ヨハネはふたつの恵みについて語っています。「キリストの恵み」は、すべての恵みの究めがたい源泉です。ヨハネはそれを「この方の充溢」と呼んでいます。「御自身の恵み」のゆえに、キリストは私たちに「私たちの恵み」を賜ります。私たちは、それをキリストからいただいて、神様のお目に適う、すてきな存在になるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 1章14節
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネによる福音書 1章14節より)
もしもあなたが、「でもそんなことはできっこない」、と言うなら、私は、「まさにそのとおり」、と答えます。神様である御言葉が肉(つまり人間)になった、ということは、理性や人間の知恵やあなた自身の考えに合致するものではありません。しかし、それは神様の御言葉と信仰に沿っているのです。「今日あなたたちのためにダヴィデの町で救い主がお生まれになりました。この方は主キリストです」(「ルカによる福音書」2章11節)、と愛らしい天使たちが歌ったということを、あなたも聞いたことがあるではないでしょうか。(・・・)神様は私たちの理解を超えたやり方で、次のふたつのことをひとつにすることができました。すなわち、この人こそはあの偉大なる師であり、永遠に御父と同じ神的本質を持っておられるお方だということです。イエス様御自身がフィリポにこう言われているとおりです、「私を見た者は父を見たのです」(「ヨハネによる福音書」14章9節)。
(マルチン・ルター、宝石箱)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書 1章14節)
私たちの主イエス・キリストは、あらゆる恵みと真理と義と栄光と命の源泉です。この泉は、たとえそこからこの世の人が皆天使になれるほど多くの恵みと真理を汲み上げたとしても、一滴たりとも減ってしまうことがないほど、測り知れず、尽きず、底知れません。この泉には、恵みが常に滾々と満ち溢れています。キリストの恵みを味わいたい人は、それをキリスト御自身から探しなさい。この泉を空っぽになるまで汲み尽くすことは、決してできません。この泉は決して枯れることがなく、いつでも溢れるほどに一杯なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
すべてを生み出した源なる御言葉は命です。そして、この命が人々の光です。この光がなければ人間には暗闇しかありません。「人間は自分の行いによって神様の恵みを獲得する」などと言うのはもちろん論外です。あたかもそれが可能であるかのように、あのおかしくなっている大学が、その偶像であるローマ法王と一緒になって教え、全世界を惑わしています。人々の光となるために、すなわち人々に知られるために、キリストはこの世に来られたのです。そして、人となられ、御自身を人々の間で肉体的にも性格的にもはっきりと示してくださいました。この方は「ランプに点された光」です。なくなってしまった銀貨が、自分の行いや光に頼って、このランプを探して奔走したわけではありません。そうではなく、ランプが銀貨を探し、その光によってそれを見つけたのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マタイによる福音書 21章5節
見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。(マタイによる福音書 21章5節より)
この方は(あなたのところに)来られます。それは確実です。あなたがこの方のところに行ってお迎えにあがるわけではありません。この方はあなたにとって尊すぎ、遠すぎるからです。お金をどんなに積んでも、いくら仕事をしても、いくら苦労しても、この方には近づくことができません。それは、あなたが自分の功績や功能によってこの方を出迎えた、などと自慢できないようにするためなのです。友よ、どのようなことをやり遂げたか、とか、どれほど有能であるか、とか、そのようなことは、この方のみもとに行くためには何の役にも立ちません。あなたにはまったく功績もなければ功能もないのです。しかし、この方は恵みと憐れみに満ちておられます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マタイによる福音書 11章5節
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。(マタイによる福音書 11章5節)
「福音」とは、キリストについて宣べ伝えることです。この福音は罪人にこう言います、「私の子よ、安心して喜びなさい。恐れてはいけません。キリストは、貧しい惨めな悲しみの心の持ち主たちにところに、恵みを伝えて与えるために来られたのですから。この方はあなたのために、神様にふさわしい永遠の清さを捨てて、あなたの罪を洗い落とし、あなたを神様と仲直りさせ、御自分を犠牲にしてあなたに罪の赦しと永遠の命を確保し、贈り届けてくださったのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 35章4節
見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。(イザヤ書 35章4節より)
神様の恵みを誰も疑ってはなりません。全世界とすべての罪に対抗してでも神様の助けに信頼するべきです。しかし、自分自身はまったくだめだとみなすべきです。「ほんの小さなよいことぐらいなら行える」などと思ってはなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
詩編 117編2節
主の慈しみとまことはとこしえに
わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。[1](詩編 117編2節)
主の恵みとまことは永遠に変わりません。
恵みの王国はこの世でも非常に強いので、
決して揺れたり倒れたりしません。
私たち人間は頼りない存在で、
罪や迷妄のせいで時にはぐらついたり躓いたりしますが、
恵みはびくともしません。
私は新奇な恵みの国を必要としていません。
常に同一の恵みが今も無償で私たち皆に対して差し出されており、
私が再び恵みのもとに戻ってくるのを待っています。
この「船」は壊れません。
洗礼の力は決して消えません。
恵みの王国は崩れません。
この「詩編」が語っている通り、
主の恵みとまことは永遠に存在しつづけます。
私はたとえ船から落ちても、再び乗船します。
洗礼を捨て去ったとしても、再びそこに戻ります。
恵みの王国から迷い出てしまっても、またそこに帰ります。
洗礼と船と恵みは永遠に力強く留まりつづけます。
それらは私の躓きやぐらつきのせいで変わったりはしません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
[1] 「主を賛美しなさい」という意味です。
詩編 103編11節
天が地を超えて高いように慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。(詩編 103編11節)
恵みは力に満ちており、私たちの中にあるあらゆる罪や怒りや悪よりも強い王国を形成しています。知の崇拝者や偽善者はいまだかつてこの御言葉を理解したことがありません。彼らの心の状態は私が知を崇拝していたときの状態と同じだろうと思います。彼らは恵みにあずかっていますが、罪を行えば恵みも失ってしまい、それを再び自分の行いによって獲得しなければならないのです。しかしこれでは、行いの上方にある恵みの王国ではなく、恵みの上方にある行いの王国になってしまいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)