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ペトロの手紙二 1章20節
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 (ペトロの手紙二 1章20節)
私たちは畏れとへりくだりの心を持って
神様の御言葉を読まなければなりません。
自分自身の賢さに頼って御言葉を説明しようとしてはいけません。
自分の賢さほど、私たちの妨げとなる有害な罪は他にありません。
御言葉を軽々しくあしらってもいけません。
聖書を読んでいて、もしも理解できない考えに出会ったなら、
帽子を外して敬意を表し、その先を読み続けましょう。
御言葉を侮ってはいけません。
人間の理解に合ったやり方で説明付けてもいけません。
御言葉には最大限の真摯さをもって接するべきであり、
御言葉を尊敬し、貴重なものとみなすべきです。
もしも気の向くままに御言葉に評価を下す態度を取るなら、
私たちは自己欺瞞に陥って窮することになります。
「自分の賢さ」という沼に沈んでいく者を、
そこから助け出すのは、容易なことではありません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ガラテヤの信徒への手紙 3章6節
それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。 (ガラテヤの信徒への手紙 3章6節)
アブラハムのように
神様の御言葉を信じる者は皆、神様の御前で義です。
なぜなら、
その人には神様に栄光を帰する信仰があるからです。
信仰は、
この世のいかなるものも殺すことができなかった
「理性」という名の怪物を死に至らせます。
アブラハムは、
「年老いた不妊の妻サラを通して子孫を起こす」
という約束を彼に与えてくれた神様の御言葉への信仰によって、
理性を殺しました。
アブラハムの理性は、
すぐにはこの御言葉を素直に聴き入れようとはせずに、
心の中で信仰に対して戦いを挑んだことでしょう。
そして、
もう90歳にもなっている、しかも不妊のサラが
男の子を産むなどというのは、
笑ってしまうほど愚かで不可能なことだと思ったでしょう。
しかし、
アブラハムの信仰は理性に対して勝利を収め、
まわりに害を撒きちらすこの一番やっかいな「神様の敵」を殺しました。
それと同様に、
義なる人たちは皆、
信仰という秘められた世界へと足を踏み入れて、
理性を殺してこう言います、
「理性よ、お前は愚かだ。
神様に属する人たちのことをお前は全然理解していない。
もうこれ以上私と争うな。
黙っていろ。
批判せずに、神様の御言葉を聴き、それを信ぜよ」。
こうして義なる人たちは、
信仰によって全世界よりも強大なこの怪物を殺します。
そうして彼らは、
神様にあらゆるものなかで最も喜ばしいささげものと礼拝をささげるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ヨハネによる福音書 3章8節
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 (ヨハネによる福音書 3章8節)
人はこの教えに勇気付けられて、
罪や試みに苦しめられているときにもこう言えます、
「私は確かに罪を通して腐敗したこの世の子だし、
死の宣告を受けた者でさえあるが、
私の主イエス・キリストが
私の罪を十字架に運ばれ、死に勝ち、
私を天のお父様と仲直りさせてくださったことを
知っており、また信じている。
このことのために私は洗礼を受けており、
私には永遠の命が約束されている。
それゆえ、私は勇気をもって神様に頼りたいと思う」。
このように新生した人間は、
十字架につけられたキリストへの信仰を通して、
罪や死や悪魔や世やあらゆる不幸を追い払います。
さらに、このような人は、
よい行いをし、神様に対し従順で、
召された職務を熱心かつ忠実に遂行し、
隣り人を愛し、もてる力に応じて助け、彼らに奉仕します。
真の信仰にはそのような行いが伴うものです。
(中略)
真摯なクリスチャンは皆、
聖霊様のそよぎに心を向け、それに聴き入り、
キリストが十字架で私たちの罪のために死んでくださったことを
信じます。
そして、そのような信仰を通して神様の子になり、
永遠の命を継ぐ者になるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」(ヨハネによる福音書 3章8節より)
神様のみわざやそれに関わることを見たり知ったりできないほど、理性は盲目なのです。
人間の理性を過大に評価して「理性は常に至高の事柄を扱う」と主張する賢い学者たちにとっては、この真実は受け入れがたいものでしょう。
人間性の最良の部分(理性)さえも取るに足らないものであり、美しく明瞭なことを識別する力もなく、怒りや激情や妬みに満ちています。
このことを知らせるために、神様はここで私たちに具体的な例を与えてくださったのでした。
イエス様はたとえとみわざによって、人間の理性は神様の御前では盲目であり死んでいることを示してくださいました。
ですから、理性が神様のみわざに関心を持たず、それを求めもしないのは当たり前なのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ルカによる福音書 5章5節
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカによる福音書 5章5節)
これはすばらしい信仰のあらわれです。
ここでのペトロのように
自分の考えにいっさいとらわれずに、
ただ御言葉のみにしっかりとつながることができるなら、
どんなによいでしょうか。
主人が召使に「これをしなさい」と命じて、
召使がその通りにするならば、
主人はそれを喜びます。
たとえ召使が失敗しても、
主人はそれで怒ったりはしません。
しかし、それとは逆に、
もしも召使が主人よりも賢くあろうとし、
「ご主人様、それはだめです。
私も前にやってみましたが、うまくいきませんでした。
だから、私はそうしたくありません」、
などと言うならば、
主人の機嫌を損なうことになります。
それゆえ、
私たちが神様と御言葉に対して
ここでのペトロのように接することを、
神様はすばらしい栄光とみなしてくださいます。
そして、
たとえ理性がいまだに私たちを他のほうに向かわせようとしても、
私たちは立ち止まり、こう言うのです、
「理性よ、お前はあちこちに揺れ動いているが、
ここに神様の御言葉と戒めがあるのだ。
そこに私はとどまりたい。
そして、こうして御言葉にとどまれるならば、
私たちの主も天の御使いたちも皆喜んでくださるのだ」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ペトロのように
一晩中仕事をして何の成果も得られないときには、
試練に遭うものです。
そういうことがあると、
私たちはすぐに心配になり、
愚痴をもらし、忍耐がなくなり、
「全部を放り出してどこかに行ってしまいたい」、と考えるものです。
しかし、私たちはこのような試みに隙を与えずに、
絶えず与えられた仕事を忠実に果たし、
仕事の成果については神様御自身にお任せしましょう。
なぜなら、私たちは、
御言葉に忠実な善良な義なる人々が何をやってもうまくいかないことを、
しばしば目にしているからです。
しかも、それとは逆に、
神様に反抗している悪い人々が
すべてにおいて彼らの希望通りに成功したりしています。
しかし、このような状態は長くは続きません。
はじめに失敗した人はしまいには成功し、
はじめに成功した人はしまいにはうまくいかなくなるからです。
あなたが不遇な目にあう場合には、
忍耐をもって仕事を続け、疲れ切ってしまわないようにしなさい。
御言葉への忠実を貫いて失敗するほうが、
御言葉を無視して成功するよりもよいことだからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)