タグは ‘良心の呵責’
ヘブライ人への手紙 11章1節
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙 11章1節)
「感情と信仰はまったく別物である」、
と私はしばしば言ってきました。
信仰は、
何も知らず、理性で理解できなくても気にせず、
目をつむって素直に御言葉に従います。
ところが、感情は、
理性で理解できることや、見聞きできることや、さわれるものに頼ります。
このように、感情と信仰とは正反対のものです。
ですから、救いに関しては、
感情から抜け出して、素直に神様の御言葉を聞きなさい。
それを心に入れ、感情に振り回されずに、
たとえあなたが自分の罪を感じている場合にも、
その罪はきれいに拭い取られていることを信頼し続けなさい。
どう感じているか観察したりせずに、
たとえ死や罪や地獄があなたを包囲している場合にも、
実はそれらはすでに敗北していることを堅く信じなさい。
なぜなら、
たとえ罪の感覚がまだ私たちの中に残っていても、
それは私たちを信仰へと追いやり、信仰を強める結果になるからです。
こうして私たちは、
あらゆる感情や理性的な考え方に反して、御言葉を自分のものとして受け入れ、
心と良心をいつもキリストに結びつけるようになるのです。
このように信仰は静かに罪や死や地獄を通り抜けて、私たちを導いていきます。
そしてようやく、私たちはあがないのみわざを自分の目でみるようになります。
そのときはじめて、自分たちが信じてきたこと、
すなわち、死やあらゆる不幸はすでに敗北していることを、
正しくまた完全に知るようになるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
エフェソの信徒への手紙 5章2節
キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 (エフェソの信徒への手紙 5章2節)
犯した罪に気がついて心がおびえているときに、
悪魔の大軍が襲いかかり、
脅しの力でキリストのみもとから引き離して絶望させるために、
罪と荒波の「洪水」でおぼれさせようとするとき、
あなたは安心してこう言えばよいのです、
「神様の御子キリストは、
義人や聖人のためではなく、
悪人や罪人のために与えられている」。
私たちは、これと同じような一連の聖書の御言葉によって心を武装しましょう。
私たちを責めて、
「お前は地獄行きの罪人だ」と言い張る悪魔に対して、
次のように答えることができるようになるためです、
「悪魔よ、お前が私を罪人呼ばわりする、まさしくそのゆえに、
わたしは義であり救いの幸せにあずかる者でありたいのだ」。
「そうだ。しかし、お前は厳しい裁きを受けるのさ」。
「いいや、そうはならない。
私の罪を帳消しにするために御自分をささげられたキリストのみもとに
私は保護を求めるからだ。
悪魔よ、
私の罪のひどさをどれほどあげつらっても、
私を恐怖や悲しみや絶望や、神様への怒りや軽蔑や侮りなどに
駆り立てることはできないぞ。
それどころか、
お前は私に、
お前自身へと向けられた武器を提供することになるのだ。
お前が私を罪人だと言うとき、
お前の剣によって、私はお前を殺し滅ぼすことになろう。
キリストはまさしく罪人のために死なれたからだ」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ローマの信徒への手紙 7章4節
ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。(ローマの信徒への手紙 7章4節)
この御言葉を口にするのは簡単ですが、
良心の呵責に悩まされている最中でも
それを正しく理解する者はさいわいです。
その人は、
罪が襲いかかり、律法が責め立て、恐怖に陥れようとするときに、
次のように言うことでしょう、
「律法よ、
お前は私を責め立て、
私が多くの罪過を犯したと証言しているが、
それが私に何の関係があろうか?
私は今でも毎日たくさん罪を犯しているが、
その事実が私を動揺させることはない。
あたかも自分の耳が聞こえない者であるかのように、
私にはお前の話は聞こえないのだ。
お前は耳の聞こえない者に語っているわけだ。
私はお前に対してすでに死んでいる。
もしもお前がどうしても罪について私と討論したいというのなら、
私の肉体や僕たちに触れてみるがよい。
それらに対して教えをたれ、訓練し、十字架につけるがよい。
ただし、私自身や良心を悩ませるな。
私自身はお前とは何の係わり合いもないからだ。
私はすでに死んでお前から分離しており、
今はキリストに対して活きているからだ。
この方の御許で私は、もうひとつの律法、
すなわち、罪と律法を支配している恵みの律法の下にいる。
何を通してそうなっているかと言えば、
キリストへの信仰を通してなのだ。
パウロが示している通りに」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
このように信仰者は苦難から解放され、その花婿であるキリストの永遠の義を着させていただいているのです。なんと救いの幸せに満ちた結びつきでしょうか!富裕で高貴な聖なる花婿が、貧しく欠点だらけで皆に蔑まれる花嫁を妻として迎え、彼女をすべての悪から解放し、最上の祝福によって祝福してくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ローマの信徒への手紙 4章18節
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ(ローマの信徒への手紙 4章18節)
私たちは「キリストの肉(身体)」という
至聖所の垂れ幕の守りの中に生きています。
この垂れ幕は私たちにとって、
昼間は雲の柱、夜は火の柱になっているので、
神様は私たちの罪をごらんにはなりません(「出エジプト記」40章)。
たとえ自分の罪がつい目に付いてしまい良心がおびえたとしても、
いつでも私たちの仲介者、仲裁者なるキリストの守りの中へ急いでいけば、
私たちは救われます。
このキリストを通して、私たちは完全無欠なのです。
キリストにはすべてがあるように、
私たちにもキリストにおいてすべてがあるからです。
このように信じるとき、神様は、
私たちの中にまだ残っている罪の廃物に対して目をつぶり、
あたかもそれが存在しないかのように覆い隠してくださいます。
神様は言われます、
「あなたは私の御子を信じているので、
あなたの中にまだ残っている罪は赦されています。
そして、最終的には死を通してそれから完全に解放されます」。
しかし、あなたはこう言うでしょう、
「自分の中に罪がありそれを感じている私のような者が、
どうして義であり聖でありうるでしょうか?」。
あなたが自分の罪を知り、それを感じているのはよいことです。
それについて神様に感謝し、絶望に陥らないようにしなさい。
健康になる第一歩は、病人が自分の病気を知り、それを告白することです。
しかし、どうすれば罪から解放されるのでしょうか?
お医者様キリストのみもとに急ぎなさい。
キリストは打ち砕かれた心を癒し、罪人を救ってくださいます
(詩編147 編3節)。
「キリストは罪人に対して怒っているぞ」
などと言ってくる理性に惑わされてはいけません。
理性を殺して、キリストを信じなさい。
こうすれば、あなたは助けを受け、義とされ、聖なのです。
なぜなら、あなたはキリストに、
全能でいつくしみ深く真実に満ちたお方としての栄光を帰しているからです。
「神様は義であられる」とあなたは告白し、神様を賛美します。
言い換えれば、
あなたは神様に神性およびすべてのものが属することをを告白するのです。
あなたの中にまだ残っている罪は、あなたに対して罪とは認められません。
それは、あなたが信じているキリストのゆえに赦されます。
キリストは完全に義なるお方です。
そして、その義はあなたのものであり、あなたの義はキリストのものです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ルカによる福音書 15章18節
私は復活して、私の父の御許に行きます。(ルカによる福音書 15章18節)
自分の中には何もよいことを見出さない、
慰めのない魂の持ち主は、
実は、神様にとって最高のささげものなのです。
とりわけ、その人が神様の恵みを叫び求める時には。
神様が喜んで聴いてくださるのは、
人が神様の憐れみを渇望し、
神様に助けを叫び求めることだけだからです。
あなたは神様に叫び求めることを学ばなければなりません。
うなだれて座っていてはいけないのです。
あなたの考えや心配があなたをかき乱し引き回した挙句、
自分がどれほどつらい状態にあり、どんなに惨めな人間か、
ということしか見えなくなったりしないように。
それは怠け者の態度です。
ひざまずいて、目と手を天に向け、
詩篇か、主の祈りを祈りなさい。
神様の御前にあなたの今の苦しみを携えて行き、
泣いて、嘆いて、神様に助けを求めなさい!
自分の弱さと罪を知れば知るほど、
神様を畏れる人は
それだけ熱心に神様に叫び、祈ります。
罪の意識と恐れが止まないときには、
祈りも、神様に向けてため息をつくことも
止むことがないからです。
すでに恵みの意味を知っている信仰者が、
恵みを祈り求めるのは、どうしてでしょうか。
彼らは恵みについて何かを味わい、
理解することができました。
まさに恵みをこのように味わったことにより、
彼らはさらにもっと恵みを渇望するようになります。
心は、御霊の初穂をいただいたときに、
自らそれで満足することはなく、
さらに完全な御霊を求めるようになるからです。
私はあなたの御許に来ることができません。
それゆえ、私の神様、
立ち上がって、あなたが私のもとに来てください。
そして、私をあなたの御許に連れて行ってください。
ここで「立ち上がる」というのは、
「神様が人となられた」という、
最高に愛らしく恵みに満ちた出来事をさしています。
神様は、私たちを立ち上がらせるために、
私たちのもとにきてくださったのです。
そして神様は
御自分の民、シオンを憐れんでくださったのです。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
ルカによる福音書 15章2節
すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカによる福音書 15章2節)
律法の要求を満たしていないことを自覚しているときに、
律法が襲いかかってきて
私の良心を苦しめる場合にはどうすればよいのでしょう?
答え。
キリストがどのようになさっているか、ごらんなさい!
キリストは、律法が神様のご命令を含んでいるにもかかわらず、
律法の攻撃には決して取り合おうとはなさいません。
あなたも同じように、律法に対して次のように言えるようになりまさい、
「愛する律法よ、私を責めたてるのはもうやめてどこかに行きなさい。
私は今お前とは何のかかわりもないからだ。
私がどれほど義しいか、お前は私と話し合い聞きただしたいと思っている。
だからこそ、私はお前のことを聞きたいとは思わない。
なぜなら、
「私はどんなものであり、何をするべきで、何をやるべきではないか」
などには気を止めず、
「キリストはどのようなお方であり、何を与え、何をなさるか」
ということにこそ注目なさる裁き主の御前で、
私たちは今応酬しあっているからだ。
私たちは今花嫁の部屋にいる。
そこにいてよいのは花嫁と花婿だけのはずだ。
そこへお前のようなものが入ってきて、話しかけたりしてはいけないのだ」。
しかし、この忠告を無視して、
律法は部屋の戸をドンドンとたたきつづけてこう言います、
「そのとおりだ。
しかし、もしも救われたいのなら、
お前はよい行いをして神様のご命令を守るべきだ」。
答え。
「今の問題はそれとはちがう問題だ、ということを聞いたことがないのか。
何の行いもなしに、主キリストにあって、私には義やすべての救いがある。
お前が来るより遥か以前から、私は救いの喜びにあずかっているので、
救われるために律法などは必要ないのだ。
すでに言ったように、
行いに何の価値もないところでは、律法にも何の意味もない。
そして律法のないところには罪もない。
それゆえ、良心を支配するのは、
奥の部屋でキリストとともにいる花嫁だけである。
彼らはすべてを共有しており、
花嫁には救われるために必要なもので欠けているものは何もない」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
マタイによる福音書 12章20節
彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。(マタイによる福音書 12章20節より)
キリストを正しく知るようになることや、キリストの王国は弱い者や病気の者だけが入っているような「病院」に他ならず、そこには手当ての必要な調子の悪い者や病人が寝込んでいる、ということを知るのは非常に大切です。このことを理解しているのは、福音をもっている者たちも含め、ごく僅かの人々です。これはあらゆることのうちでも最も偉大な知恵です。
(マルチン・ルター、宝石箱)
正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。(マタイによる福音書 12章20節)
「傷ついた葦」とは、道に迷ったあげく神様を恐れて逃げ出してしまう、か弱く傷めつけられた良心のことです。キリストはこのような葦を足で踏みにじったりはなさいません。それはキリストのやり方ではないからです。それとは逆に、キリストはその葦が折れてしまわないように優しく扱ってくださいます。弱々しくくすぶっている燈芯よ、どんなに自分の中から火よりも煙の方が多く出ているとしても、疑いにとらわれてはいけません!そのような燈芯をキリストは決して消されず、それに火を点すために休みなく世話してくださいます。このことは、理解する人にとっては、大きな慰めです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マタイによる福音書 11章28節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書 11章28節)
イエス様は重荷を取り去ってくださいます。すなわち、罪を赦してくださいます。イエス様は困っている人の苦しみを和らげ、喜びと安全を与えてくださいます。良心の呵責に悩まされている人は、自分が罪赦されて天国を継ぐ者とされていることを知るとき、真の意味で大いに元気付けられます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
詩編 32編1節
いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。(詩編 32編1節)
まったく罪がなかったり、何の罪も感じなかったりする人のことを、
私たちは真のクリスチャンとは呼びません。
そう呼ばれるにふさわしいのは、
キリストへの信仰のゆえに神様から罪を赦していただいた人です。
本当に苦しいときに、この教えは良心に安らかな慰めを与えてくれます。
キリストのゆえに人は罪赦され、義を「自分のもの」にしてよいと認められます。
クリスチャンは、とりわけ苦しいときには、
律法や罪とかかわりをもってはいけません。
このことを、私たちは無駄に繰り返し教えてきたわけではないのです。
クリスチャンであるならば、その人は律法と罪の上方にいます。
その人の心の中に、ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているようにして、
律法の主なるキリストがとどまっておられるからです。
律法が責め立て、罪がおびえさせるときに、その人はキリストを見つめます。
その人がキリストを信仰によって理解しているなら、
律法と罪と死と悪魔に勝利し支配なさるお方がその人と共にいてくださるので、
それらがクリスチャンに危害を加えることはありえません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)