ガラテヤの信徒への手紙 5章1節
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤの信徒への手紙 5章1節)
見なさい!これが真にキリスト教的な「あがないと解放」です。すなわち、私たちは律法や律法による裁きや罪や死から、キリストのゆえに、贖われ自由にされたのです。それは、律法や死がもはや存在しなくなった、という意味ではなく、それらがまるで存在しないかのように無力になっている、ということです。律法が私たちを罪へと引きずっていくこともなければ、死が私たちを困惑させることもありません。信仰が私たちを義や永遠の命へと導いていくからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
クリスチャンは「ごくまれな鳥」です。
「クリスチャンの自由」の意味を
本当にわかっている人はごくわずかです。
多くの人は、
それが肉的な(欲求を満たす)自由であると誤解しています。
しかし、
本来それは良心と魂の自由なのです。
あなたは心や善悪の判断力が清くも義しくもありません。
ですから、もし清く義しくなり救われたいのなら、
王なるイエス・キリストを通してのみ、
自分が清く義しくなり救われることを、
あなたは告白しなければなりません。
あなたのために十字架で流してくださったキリストの血を通して、
あなたはそうした者になれるのです。
そして、それこそがあなたを自由にします。
クリスチャンはすべてにおいて自由な主人であり、
誰の僕でもありません。
一方では、
クリスチャンにはすべてに仕える義務があり、
すべての僕です。
神様との関係では、
あなたはすべてにおいて信仰を通して自由です。
しかし、
人々との関係では、
あなたは愛のゆえにすべての僕です。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)