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ヨハネの黙示録 14章13節
また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(ヨハネの黙示録 14章13節)
「第二の死」(終わりの日に復活して永遠の死という裁きを受けること)は信仰者に対しては支配力を失い、キリストを通して命へとかえられています。あとに残っているのは、ほんの小さな死の胎、砂糖のように甘い死だけです。クリスチャンは死ぬことを通して、その「肉」(この世での身体)が不信仰、重くのしかかる罪、悲惨、悲しみ、誘惑から解放され、信仰、永遠の義、完全性、喜びへと移っていきます。この死(主に会って死ぬこと)は地上でのどのような人生よりも甘いものです。心に咎めがなく、信仰と永遠の命の確信をもって死ぬことは、私たちがこの人生や物や享楽から得ることができるような喜びよりも大きな喜びです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネの手紙一 5章4節
神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。(ヨハネの手紙一 5章4節)
キリストがこの世で歩まれた「歴史」を知っていることは信仰ではありません。悪魔どももそれを知っています。「信仰」と私たちが呼ぶのは、聖霊様が与えてくださる新しい光と力のことです。それによって私たちは悪魔の脅迫に打ち勝つのです。この勝利はクリスチャンであることの目印であり、神様から生まれた人たちはそれをもっています。その目印は、クリスチャンを、神様の御言葉に表面的には触れてはいてもその力を一度も経験したことのない偽の子供たちから区別します。
(マルチン・ルター、宝石箱)
信仰は、神様の恵みへの生き生きとした大胆な信頼です。
信仰は、確信に満ちているので、
神様の恵みに頼り切って
千回死ぬのもいとわないほどです。
神様の恵みを知って信頼するとき、
人は、神様やすべての被造物に対して、
びくびくせずに心から喜ぶ者にしていただけます。
神様の恵みを知ってそれに信頼する人は、
神様への愛から、
神様への賛美のあらわれとして、
無理強いされなくても、
すべてに対してよいことを行いたくなり、
すべてに仕え、
すべてを耐えます。
それゆえ、
行いと信仰を互いに分け隔てるのは不可能です。
それはちょうど
火が燃えていることと火が輝いていることとを
分けることができないのと同じです。
私たちには、
信仰よりもよいものをさがす必要がありません。
信仰から目をそらさないようにしましょう。
私たちの信仰が成長して強められていくためです。
なぜなら、
信仰の成長は、
信仰の誕生と同じように、
なくてはならないものだからです。
ただし、
これらすべてのことは神様のみわざなのです。
わずかな「ミルクの信仰」は、まだひよわなものです。
本当の試練がやってくると、
それによって信仰が試されますが、
神様から信仰を強めていただく必要があります。
そうしなければ、
そのわずかな信仰は試練に耐えることができません。
信仰が最高に力強く素晴らしい状態にあるのは、
嘆きや苦しみが最も辛い時にほかなりません。
信仰は活きており、働いており、熱心で、偉大なことです。
それゆえ、
それが善いことを行わないでいることは、到底不可能です。
信仰は、
「善いことをどうしてもやらなければならないのか」、
などとぼやいたりはしません。
そんなことを口にする前に、
すでに信仰は善きわざを働きの中で行っているのです。
信仰は光です。
理性が暗さを増していき、恥に陥るときに、
この光は私たちを導き、暗闇の中で私たちのために輝きます。
私はしばしば二つの信仰について話してきました。
あるタイプの「信仰」は次のようなものです。
あなたはキリストを、
福音全体に描かれ啓示されている通りに信じてはいますが、
あなた自身については、そのようなお方としては信じてはいません。
あなたは、
自分がキリストからすべてをいただいているのか、
それともこれからいただくのか、
確信がもてません。
こうした「信仰」は無きに等しいものです。
それでは、
キリストを味わったり、
キリストに対して「素晴らしいお方だなあ」
という感情や愛をいだいたりすることが、
決してできません。
それは
「キリストを取り扱う信仰」ではありますが、
「キリストへの信仰」ではありません。
そのような「信仰」は
悪魔にも、神様をないがしろにしている者たちにもあります。
あなたの救いは、
あなたがキリストを「義人たちのキリスト」であると
信じることにはありません。
そうではなく、
あなたがキリストを「自分自身のキリスト」として
信じるところにあるのです。
この信仰こそが、
キリストをあなたにとって愛するお方とし、
キリストがあなたの心の中で愛らしく感じられるようにするのです。
その結果、
何の強制もなしに、愛とよい行いとが生れてきます。
もしもそれらが生れない場合には、信仰もそこにはないのです。
神様はその人自身を通して
偉大なみわざを成し遂げたいと望まれている、
という確信を失わないようにしなさい。
神様があなたに何を望まれているか、
揺るがず、疑わず、
注意を凝らさなければなりません。
あなたがたは信じなければなりません。
こう聞くとあなたがたはすぐに、
「私は自分から信じ始めることにしたい」、
と言うでしょう。
あなたがたは、
信仰とは、
あなたがた自身の仕事や力や行いのことであるかのように思い込み、
あまりにも安易に「行い」に走ってしまいます。
しかし、それではいけないのです。
あなたはこのことを神様にゆだねなければなりません。
自分を信じてはいけないのです。
信仰は
神様からの賜物であり、
神様の力であることを、
まず始めに学びなさい。
それは、
神様おひとりのみに栄光を帰するためであり、
誰も自分の力を誇ることのないためです。
私たちを引き寄せ、御言葉を与え、
御言葉を通して聖霊様と信仰を与えてくださるのは、
天の御父様です。
聖霊様と信仰は、
そのどちらも神様からの賜物です。
私たちの仕事や力の結果ではありません。
もしも私たちが神様に、「聖霊様をください」、と祈るなら、
神様は喜んで聖霊様を与えてくださいます。
「御言葉を聞けば、すぐにそれを信じることができる」、
などと思い込み、傲慢にならないように注意しなさい。
さもないと、
「よい行いをするのは難しいけど、信じることはすぐに習得できる」、
などと考えるようになってしまいます。
試練もなく、悲しいこともなく、
へりくだる必要もなかった人々は、
信仰を取るに足りないこととみなします。
しかし、
彼らの信仰が試され、
間違った教えを見分ける必要に迫られ、
危機の最中で自分を慰めなければならない時が来ると、
歌は消え、
誰も家でくつろいではいられなくなります。
信じない人は、
「水の流れを渡りたいと思いながらも、
船を信頼するのを恐れているため、
結局自分のいるところにとどまりつづける人」、
に似ています。
信じない人は決して救われません。
なぜなら、
その人は、船に乗り込んで水の流れを渡りたいとは思わないからです。
あなたは、
もしも信じているならば、それについて話すことでしょう。
もしも話すなら、そのために苦しむことになるでしょう。
もしも苦しむなら、それから慰めを受けるでしょう。
なぜなら、
信仰と信仰告白と十字架とは互いにかかわりがあり、
真のクリスチャンに伴うものだからです。
信仰はすべてにおいて必要不可欠です。
信仰はすべてを軽く、善く、愛らしいものにします。
牢獄にいても、
死の荒波にさらされていても、
それは同じです。
実際その通りであると、殉教者たちは証しています。
たとえあなたが
全世界の快適な贅沢を味わうことができたとしても、
信仰がなければ、
それは重苦しく、悪く、失望に満ちた人生です。
実際その通りであると、権勢を誇った大金持ちたちは証しています。
彼らの人生はいつでも最も惨めなものでした。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
ヨハネの手紙一 2章7節
愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。(ヨハネの手紙一 2章7節)
クリスチャンは、罪の誘惑を相変わらず感じているがゆえに心のなかで苦しみつつ自分の罪を告白する罪人です。罪を知らない者はクリスチャンではありません。もしもあなたがそのような者に出会うなら、あなたは反キリストに出会うのであって、クリスチャンに出会うのではありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エフェソの信徒への手紙 2章8~10節
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソの信徒への手紙 2章8~10節)
クリスチャンのよい行いには名称も時間も場所もありません。それらは、いつどこで彼らが行ったとしても、よい正しい行いなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コリントの信徒への手紙二 12章7~8節
また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。(コリントの信徒への手紙二 12章7~8節)
このように主はその聖徒たちに対して取り計らわれます。もしも主がこのようになさらなければ、聖徒たちもまた高慢へと落ち込み、自分を神であるかのようにみなすようになったりします。あるいはまた、私たちは彼らを自分の偶像に仕立て上げ、神様の恵みよりも彼らの優秀さや人格の方により細かい注意を向けるようになってしまいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ローマの信徒への手紙 8章35~37節
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(ローマの信徒への手紙 8章35~37節)
クリスチャンは救いの幸せに満ちていると同時に勇敢でもあります。クリスチャンは悪魔も不幸もおそれません。自分がキリストによってすべての主人であることを知っているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 17章3節
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネによる福音書 17章3節)
もしもあなたが、クリスチャンとはどのような者であるか、あるいは、何に基づいて人はクリスチャンと呼ばれるのか、について本当に知り、はっきりと理解したいならば、モーセの律法や聖人たちの生活に基づいてではなく、次のようなキリストの言葉に基づいて考えなければなりません、「私の羊は私がよい羊飼いであることを知っており、私をよく知っています。それゆえ、彼らは私のもとに来て、自分自身の弱さや病に怯えることなく、私にしっかりと身を寄せます。また、彼らは私がそのような羊たちを可愛く思っていることを知っています」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 11章25節
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネによる福音書 11章25節)
「人」と呼ばれるのは、
肉と血から生まれた者です。
「クリスチャン」と呼ばれるのは、
洗礼を授けられ、キリストの血により、
洗礼を通して、あらゆる罪からきれいに洗われた者です。
もしも誰かがあなたに、
「どうしてあなたはクリスチャンと呼ばれるのですか。
あなたの名前は別にあるでしょう」、
ときくならば、こう答えなさい、
「両親が私に名前をつけました。
しかし、キリストというお方のゆえに、私はクリスチャンと呼ばれるのです。
私がこの世を去るときに、名前で呼ばれていた私という人間は墓で死にます。
しかし、クリスチャンは死なず、葬られもせず、生きつづけます。
それゆえ、たとえ私が名前をもった人間として死ぬとしても、
それにはたいした意味がありません。
もしも私がクリスチャンならば、
私の名前で呼ばれる人間は再び墓からよみがえるからです。
私にその御名を賜った主キリストが私に言われている通りにです」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ヨハネによる福音書 10章14~15節
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。(ヨハネによる福音書 10章14~15節)
ということは、私たちは自分の中にある何かや自分を通して生じる何かに基づいてクリスチャンになるのではないのです。それではどのようにして私たちはクリスチャンになるのでしょうか?キリストを知り、キリストを愛することによって、また、御自分の羊のためにその命をささげまた御自分の羊のことを知っているよい羊飼いとしてキリストを受け入れることによってのみ、私たちはクリスチャンになるのです。そして、キリストもそのような方であられたいと望まれていま。これを知ることが、ほかならぬ福音の御言葉によって生じる信仰なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マタイによる福音書 12章33節
木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。(マタイによる福音書 12章33節)
よい行いが人をクリスチャンにするのではなくて、クリスチャンが良い行いをするのです。実は木から生じて大きくなり、その木がどのようなものであるか、示します。しかし、「何かを示す」ことと「その何かである」ことは全く別のことなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ダニエル書 12章13節
終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。(ダニエル書 12章13節)
クリスチャンの死は夢です。それを通してクリスチャンは命へと入ります。しかし、神様をないがしろにする者は命を捨てて永遠の死を得ます。あなたがたは次のように確信してよいのです、「キリストを信じて先にこの世を去ったあなたがたの友たちは死んだのではなく、甘く心地よい夢を見つつ眠っています。そして最後の日に、栄光に満ち太陽よりも眩しく光を放っている体をまとって復活するのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 57章15節
高く、あがめられて、永遠にいまし
その名を聖と唱えられる方がこう言われる。
わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書 57章15節)
この地上で神様がお住みになる
「素敵な家、城、広間、楽園、天」とみなされる人は、
いかに大きな栄光と恵みを受けていることでしょう。
彼ら自身は、貧しく苦しむ臆病な良心の持ち主にすぎません。
彼らは心の中で、
罪、死、恐れ、神様の怒りへの恐怖しか感じていません。
彼らは、神様が遠くにいて悪魔がそばにいる、と思っています。
しかし、今日の聖書の箇所での約束を受けて入れた人は、
自分が神様が憩われる本当の住まい、神殿であることを知って、
喜びをもって自分を慰めることができます。
この人たちについて神様は、
傲慢な聖人たちに対抗してこう言われます、
「主はこう言われます、
「天はわたしの王座、地はわが足台。
あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。
何がわたしの安息の場となりうるか」。
主は言われます、
「これらはすべて、わたしの手が造り
これらはすべて、それゆえに存在すると
主は言われる。わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人」」
(イザヤ書 66章1~2節)。
この地上で神様は、
このような人以外のところに住まわれたりはしません。
自己満足に浸っている聖人たちは、
神様にとっては、あまりも尊大で賢すぎるのです。
しかも彼らは、
神様がこの地上で彼らの中にお住まいになることを
願ったりもしません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
クリスチャンであることがどれほど尊い価値を持っているか、御覧なさい。
この地上でクリスチャンは、奇跡的な存在です。
神様の御前でクリスチャンは、天地よりも大切な存在です。
クリスチャンは、全世界の光であり救いを伝える存在です。
クリスチャンを通して、神様はすべてに働きかけておられます。
しかし、一方でクリスチャンは、
世に対しては完全に隠された、知られざる存在です。
世はクリスチャンを知るのにふさわしくはなく、
クリスチャンを評価もしません。
今日の御言葉は、
クリスチャンに与えられている言い表しようもないほど素晴らしい栄光
について語っています。
クリスチャンを通してのみ、
すなわち、クリスチャンの中で、
クリスチャンの言葉や行いや口や手を通してのみ、
神様は御自分を現すことを望まれます。
このように神様は、
クリスチャンとそうではない人との間に大きな差を設けられました。
クリスチャンは、
この世から見てどんなに価値がない存在であったとしても、
神様の御前では、
どんな王様や貴族や全世界よりも価値のある存在なのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)