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ヤコブの手紙 1章12節

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。(ヤコブの手紙 1章12節)

苦難は私たちの信仰生活を知恵と御言葉の告白によって深め豊かなものとします。また苦難は私たちの希望を強め、キリストの王国を広めます。ですから次のように言うことにしましょう、「私は苦難を嘆いたり自慢したりせず、愛する神様が私に担うようにと与えてくださるすべてのことを忍耐強く担いたいと思います。神様が私をこのように大きくまた満ち溢れた善性と恵みへと召してくださったことを、私は心から神様に感謝したいと思います」。
(マルチン・ルター、宝石箱)


試練を耐え忍ぶ人は幸いです。(ヤコブの手紙 1章12節より)

私の友よ、
主を待ち望み、主の守りに安心して信頼しなさい。
もしもクリスチャンとしての信仰を鍛える試練が何もないなら、
どれほど私たちクリスチャンが、
自分の罪深さを悲しまない、
怠惰で、安逸を愛する者に成り下がってしまうか、
あなたもよくお分かりでしょう。
試練がなければ、私たちには、
ローマ法王の教会で起きたのと同じことが起きるでしょう。
そうです、
試練はクリスチャンの薬であり、
乳香であり、アロエであり、
あらゆる害虫や皮膚病や疫病や体の怪我や汚れや罪に対する、
解毒剤なのです。
こういうわけですから、
私たちは試練を軽んじたり、
気の向くままに選り好みしてはいけないのです。
私たちは試練を、
神様が送ってくださる通りに、
そのまま受け入れなければなりません。
そうすれば、試練は、
それがどんなに大きかろうが、
どんな種類のものだろうが、
私たちに祝福と益をもたらすものになります。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

コロサイの信徒への手紙 3章17節

そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイの信徒への手紙 3章17節)

感謝と賛美。これらこそ、私たちが神様に差し上げることができるよいものです。ここに真の礼拝があります。神様御自身が次のように告げてくださっている通りです、「感謝をささげる者は私を敬っています。正しい道に留まっている者は、どのように神様が救ってくださるか、見ることができます」(詩編50編23節)。私たちが神様にこのような感謝のささげものをするために、神様は私たちによいものをすべて与えてくださっているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 7章37~38節

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書 7章37~38節)

イエス様は限りも終わりもない、満ち満ちたお方です。あなたがたはこの方を臆することなく汲み出して、喜びに浸りながら飲みなさい。この満ち満ちた有り余る豊かさは永遠に涸れることがありません。ですから、あなたがたはイエス様に永遠に感謝し賛美するのが当然なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 17章14~16節

イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(ルカによる福音書 17章14~16節)

私たちは、まず神様が善なるお方であることをはっきり信頼して信じ、人から感謝されないことを耐えて、感謝するときに、本物のクリスチャンなのです。このようにクリスチャンの人生は善の中を(悪を通して)終わりまで歩むのです。復讐を求めず、信仰や愛や希望の中で成長し、神様に支配と裁きと復讐を委ねます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 118編21節

わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。(詩編 118編21節)

この歌詞は大きな喜びにみちています。
愛にあふれる神様であられるあなたが、
思いもよらない方法で、
また友に接するように、
私たちを支配してくださっているのは、
驚くべきことです。
 
あなたは私たちをへりくだらせる時に、
私たちを持ち上げてくださいます。
 
あなたは私たちを罪人にする時に、
私たちを義としてくださいます。
 
あなたは私たちが負ける時に、
私たちに勝利をあたえてくださいます。
 
あなたは私たちが苦境に立たされるのを許される時に、
私たちを慰めてくださいます。
 
あなたは私たちが嘆くようになさる時に、
私たちに喜びを与えてくださいます。
 
あなたは私たちが苦しみを耐えている時に、
私たちを強められます。
 
あなたは私たちに窮乏を与えられる時に、
私たちを豊かになさいます。
 
あなたは私たちを僕になさる時に、
私たちを主人にしてくださいます。
 
あなたはこれらに加えて
幾多の同様な奇跡を行ってくださっています。
それが、この聖書の箇所に含まれています。
そして、キリスト教会において、
「私はあなたに感謝します。
あなたは私を懲らしめ、
また助けてくださいましたから」、
という短い一節によって賛美されています。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

詩編 103編2~3節

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し(詩編 103編2~3節)

もしも私たちが罪を忘れてしまうならば、恵みも取るに足りないものとみなしていることになります。もしも、私たちが自分たちの犯罪を忘れてしまうならば、神様に感謝することもなくなり、自分の罪深さを悲しむ気持ちも消えて、もっと悪い罪や犯罪を平気で行うことに慣れてしまいます。それゆえ、私たちは今までに犯してきた罪のことを考えて、神様に、「私はこのように生き、このように行ってきました。私の罪をすべて忘れてくださった神様を賛美します」、と言わなければなりません。このようにして、恵みはすばらしいものに変わり、あなた自身は好ましい信仰生活に留まることができます。要するに、もしもあなた自身が自分の罪を思い起こしてそれを心に留めるならば、神様も御自分の恵みと憐れみとを御心に留めてくださるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

詩編 50篇23節

感謝をささげる者は私をあがめています。(正しい)道にとどまる者に私は神様の救いを見せましょう。(詩編 50篇23節)

「感謝のささげものは私(神様)の栄光のためにささげられます。そうすることで人々は私に仕えています。人々が私に感謝をささげる理由は、私が幸せに満ちた救いがどのようなものか、彼らにはっきり示しているからです」。このようなささげもの(感謝)は、ほかのどんなささげものよりも神様を喜ばせます。不信仰な偽善者は神様に、あたかも神様がそれを必要としてでもいるかのように、自分の奉仕を押し付けようとします。しかし、神様は私たちに「与えたい」と望んでおられまた「実際に与えてくださる」お方です。なぜなら、私たちこそ、神様のくださるよきものを必要としているからです。神様が望んでおられるのは、私たちが感謝の心をもち、御自身を私たちの神様として受け入れることだけです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者