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テトスへの手紙 3章4~5節
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。(テトスへの手紙 3章4~5節)
使徒はこの「洗い」を「再び生まれること」と呼び、また「聖霊様によって新しくされること」と呼んでいます。それは、恵みの大きさと力が私たちにはっきり示されるためです。この洗いは非常に偉大なわざなので、それを行えるのは被造物ではなく、ただ聖霊様のみです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章2節
あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。(ガラテヤの信徒への手紙 3章2節)
この証によってパウロは、
ガラテヤの信徒たちが御霊を受けたのは、
律法の行いによるのではなく、
福音の説教を通してであった、
という明らかな体験を
彼ら自身否定できなくなるようにしました。
パウロはこう言っているのです、
「あなたがたは、
律法を通して御霊を受けたとは言えないはずです。
律法の下で律法の行いをしていたとき、
あなたがたは聖霊様を一度も受けてはいなかったのですから。
あなたがたがまだ何の行いもせず実を結ばなかったときに、
信仰の説教である福音があなたがたのもとにやってきました。
それを信仰をもって聴くことを通して
あなたがたは聖霊様をいただいたのです。
というのは、
福音書記者ルカが(使徒言行録10章44節および19章6節)の中で、
聖霊様はペトロやパウロの説教の働きによって
御言葉を聴いた人々の上に来てくださり、
御霊を受けた人々はさまざまな賜物をいただき、
異言で話すようにもなった、
と証しているからです。
そういうわけですから、
あなたがたが何かよいことをしたり
福音の働きによって何か実を結んだりするよりも前の時点で、
聖霊様があなたがたに
信仰をもって聴くことを通してのみ与えられているのは、
明らかです」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
コリントの信徒への手紙二 3章4~6節
わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。(コリントの信徒への手紙二 3章4~6節)
文字の働きによっては、誰も神様の怒りに耐えられません。聖霊様の働きによってなら、神様の恵みのゆえに、誰も滅びることはありえません。聖霊様は私たちを活ける者にしてくださいます。聖なる唯一の福音、健康的で、救いをもたらすメッセージ、愛らしく慰めに満ちた御言葉こそが、悲しみに沈んだ心を慰め、元気付けてくれるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コリントの信徒へ手紙二 1章21~22節
わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。(コリントの信徒へ手紙二 1章21~22節)
私たちひとりひとりが「自分は神様の恵みに与っており、自分がその行いも含めて神様に認証していただいている」と確信できるよう熱心に努めましょう。また次のように心から言えるようになりましょう、「私は神様の恵みに与っていることを知っている、私には聖霊様がいてくださる、神様の目に私は素晴らしい、自分の業績や行いのおかげではなく、キリストのゆえに」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コリントの信徒への手紙一 3章16節
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。(コリントの信徒への手紙一 3章16節)
聖霊様が私たちの中に住んでおられ、「私たちは聖霊様の神殿である」ことを、疑わずに確信しましょう。神様の御言葉を愛し、聴きたいと思う者、喜んでキリストについて考え、話し、書く者は、それらの働きが、自分たちの意志や理解から生じるのではなく、聖霊様の賜物であることを知りなさい。私たちにそうさせるのは、実は聖霊様なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ローマの信徒への手紙 8章12節
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。(ローマの信徒への手紙 8章12節)
あなたがたは、今やクリスチャンになり聖霊様をいただいているので、あなたがたの新しい召し、立場、存在は、あなたがたが御霊の導きによって生きていくことを義務付けています。しかし、そうするかしないかを、自分で選ぶことはできません。もしも恵みや御霊を誇るのならば、御霊に従って生きていく義務があり、自分たちの利己的な性質に振り回されつづけてはいけないことを、あなたがたは告白しなければなりません。なぜなら、あなたがたの自己中心的な性質は、罪の中に生きつづけようとするものだからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 16章13節
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 (ヨハネによる福音書 16章13節)
キリストはここで聖霊様を説教者として紹介なさいます。
それは、
聖霊様を御言葉や説教職と分離して考える
惑わす霊に取り付かれた者たちのように、
聖霊は天国だけにいる、
などと思い違いをしないためであり、
また、聖霊様は私たちのもとにいることを望まれ、
御言葉を通して私たちを真理全体に導かれることを、
皆が知るようになるためです。
それで、私も自分を「未熟な博士」と呼びたいと思います。
それは、
雲まで舞い上がり聖霊様の羽の下にふんぞり返っている
高慢な霊たちのように、
自分のことをあまりに誇りすぎないためです。
実際に体験したことですが、
悪魔の誘いに乗って御言葉の外へと迷い出て、
雲の上のことばかり思い描いていると、
いつの間にか私は、
神様がどこにいて、自分がどこにいるのか、
さっぱりわからなくなってしまったものです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ヨハネによる福音書 14章26節
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネによる福音書 14章26節)
御言葉に触れるのは、たとえそれがいつも私たちを感動させるわけではないとしても、有益なよいことです。それにより、必要に応じて私たちの心が聞いた御言葉を思い出して正しく理解し、その力と慰めを感じるようになります。それはちょうど、灰に覆われてくすぶっていた火の粉が、そこに空気を送り込んでやるとぱっと燃え上がるようなものです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
確かに私たちは「聖霊様の説教」である神様の御言葉を聴いていますが、
それがいつも人の心を打ち、
信じて受け入れられるというわけではありません。
聖霊様の働きによって
御言葉を自分のものとし、すすんで聴く者でさえ、
かならず御言葉の実を結ぶとは限りません。
御言葉によって
悔い改めたり、慰められたり、支えられたりしないまま、
長い時がたってしまうこともしばしばあることでしょう。
とりわけ、
これといった苦しみや危険もなく、
波風も立たずのんびりと過ぎていく人生の場合には、
そうなってしまうことでしょう。
それはちょうど、
キリストが取り去られる前の使徒たちのようです。
その時には、
「キリストが肉体をともなって弟子たちと共にいてくださる」
という類の慰めしか弟子たちは考えません。
それゆえ、私たちは、
困難や危険に直面した時には、
真の慰めを慕い求めて、
嘆息するようにならなければならないのです。
そうしてはじめて、
聖霊様はその職務を遂行され、力を発揮されます。
すなわち、私たちの心を教えて、
説教が取り上げた御言葉を私たちに思い起こさせてくださるのです。
そういうわけで、
御言葉を聴いてそれを心に蒔くのは有益なよいことです。
御言葉はいつも心に響くわけではありませんが、
聖霊様はその御言葉が必要な「ある時」に、
かつて聴いたことがあるその御言葉を
私たちの心に思い起こさせてくださいます。
それはあたかも、
しばらくの間は消えそうになっていたのに、
それをかき混ぜて空気を送り込んでやるとまた燃え始める炭のようです。
ですから、
御言葉を聴いてすぐに
その実(つまり具体的な効果)を感じないからといって、
御言葉を
無力なものだとか、無駄に説教されたものだとか、
みなさないように、
また、
何か他のものに助けを求めたりしないように注意しなさい。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ヨハネによる福音書 14章15~17節
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネによる福音書 14章15~17節)
キリストが描き出しておられるように、聖霊様は恵みと慰めの御霊であるということを私たちは知り信じなければなりません。このように三位一体なる神様はあらゆる面から私たちを慰めてくださいます。御父様は聖霊様を与えることによって慰めてくださり、御子は聖霊様が私たちに与えられるように祈ることによって慰めてくださり、聖霊様は御自身が慰め主であることによって慰めてくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 6章44節
わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネによる福音書 6章44節)
自分で自分を救うことができないとわかり、(聖書の)教えを受け入れて自分を救ってほしいと願う人たちが、僅かとはいえ今もなお存在します。彼らは自分自身に欠点があることを知っており、またそれゆえ嘆き怯えている良心の持ち主たちです。彼らは御言葉をいくら聴いても読んでも、決して飽きることがありません。彼らは御言葉を真剣に受け取り、自分自身の義や正しさについては何も知りません。彼らは聖霊様の力によって神様へと自分たちが引き寄せられていくのにゆだねています。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 1章11~13節
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(ヨハネによる福音書 1章11~13節)
信仰は私たちの中における神様のみわざです。信仰は私たちを変え、新しく生み、古いアダムを殺し、心や思いや力に関して私たちを新しい人間にし、私たちに聖霊様を与えてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ルカによる福音書 8章10節
イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」(ルカによる福音書 8章10節)
私たちは自分たちの理解を超えて隠されている秘密を「奥義」と呼びます。神様の御国にも奥義があります。パウロも言っているように、私たちに示してくださったあらゆる恵みと共に「キリスト」がその奥義です。キリストを知っている者は、神様の御国とは何であり、何がその中に入っているか、を知っています。これが奥義と名づけられているものなのです。それは霊的な秘密であり、聖霊様がそれについて告げてくださらなければ秘密として留まりつづけるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ゼカリヤ書 4章6節
武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。(ゼカリヤ書 4章6節より)
主は大人物を通して行いたくないことを、御自分の取るに足らない聖徒を通じて実現なさいます。エルサレム詣での折、まだ子供だった主イエス様は両親から離れてお隠れになり、母親が心配して御自分を捜すようにと取り計らわれました。復活されたときに主は、母親にでも使徒たちにでもなく、まず初めにマグダラのマリアにあらわれました。主は母親に対してよりも、サマリアの女や姦淫の罪を見つけられた女に対して、より優しく話しかけました。ペトロが罪に陥り「主を知らない」と否定した一方で、十字架につけられた強盗は揺るぎない信仰を得ました。これらやこれらに似た驚くような例を通じて、神様は、御霊の多様な働きかけを私たち人間が台無しにすることを許されないことを、教えておられます。
(マルチン・ルター、宝石箱)