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ヘブライ人への手紙 12章1節

すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、(ヘブライ人への手紙 12章1節より)

私には何度か次のようなことがありました。
私は、「かくかくしかじかの日に聖餐式に参加しよう」、と考えていました。
ところが、その日が来ると、
熱心さが消えうせたり、何か用事ができたり、
「自分は聖餐を受けるのにふさわしくない」、と感じたりして、
「聖餐を受けるのはあと1週間のばそう」、
と自分に言うほかありませんでした。
しかし、1週間たっても自分は相変わらず
聖餐を受けるにはふさわしくないままだったので、
また延期し、ということが繰り返しつづきました。
恵み深い神様はそんな私に、
これは悪魔のわなであることを教えてくださいました。
それで私はこう言いました、
「悪魔よ、その手に乗るものか。
私が聖餐にあずかるのにふさわしくなるためには、
まる1年もたってしまうだろう」。
こうして悪魔の策略から抜け出して、私は聖餐式に参加しました。
ときには普段は必ずする告解もせずに聖餐を受けることさえありました。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

コリントの信徒への手紙一 11章29節

主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(コリントの信徒への手紙一 11章29節)

悪魔はあなたをこう言って試みることでしょう、「それでは、もしもあなたが聖餐をふさわしくない状態で受けて恵みを失ったら、どうする」。自分が聖餐を受けるにふさわしい状態にあるかどうか自問して悩まないようにしなさい。「あなたは信じている」ということに関心を集中しなさい。そうすれば、あなたは聖餐を受けるのにふさわしい者であり、またそうあり続けます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 11章28節

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。(コリントの信徒への手紙一 11章28節)

自分を正しく吟味する者は、他の人々をその罪のゆえに裁いたりせず、それを忘れ去る用意ができています。彼は、自分が多くの罪や過ちによって苦しめられている身であることを知っており、それゆえキリストの恵みと助けとを強く待ち望んでいます。これこそが、最も素晴らしく最もふさわしい、聖餐式に向けて自分を整えるやり方なのです。アウグスティヌスもこう言っています、「この平和を求めているのは、飢えている者や空ろな魂だけであり、満足しきった傲慢な者はそれを必要としていません」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 11章26節

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリントの信徒への手紙一 11章26節)

聖餐式に頻繁に通う習慣を身に着けなさい。それもとりわけ、あなたたちが聖餐式にふさわしく自己を整えたとき、すなわち、心のうちで罪を悲しんでいるときこそ。それは、あなたたちが私たちの救い主イエス・キリストを忘れずに、主の犠牲と死とに思いを向けるためです。主は私たちからこのこと以外を期待してはおられません。「自分が下手であるとか、弱いとか、不忠実である」と感じるときに、あなたは主以外のどこから力をさがすつもりなのですか。汚れのない強い人間になるのを待ち続けるのは愚かなことです。そのような存在には決してなれません。もしも、自分がそのような者だと思い込んでいるなら、聖餐式はあなたにとって何の益もありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 11章23~26節

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリントの信徒への手紙一 11章23~26節)

キリストは、御言葉によって皆を慰めてくださるだけではなく、ここで御言葉がはっきりと語っているように、パンと共に御自身の身体を食べ物として、ぶどう酒と共に御自身の血を飲み物として、あなたに与えてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 6章54節

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネによる福音書 6章54節)

キリストの体は、全能なる神様の聖なるお住まいです。
それゆえ、神様のものはすべてキリストのものでもあります。
「キリストと神様の富はすべて私のものである」
というしるしと確信をもつために、
私はキリストの体と血とをいただくのです。
聖餐は、主イエス・キリストの偉大な恵みと愛を示しています。
キリストは罪人たちを心から世話して、
私たちに対して大いなるよきわざと優しい愛を示し、
私たちのそばにいるだけではなく、
御自分の体をも私たちの栄養として与えてくださっています。
それは、地上でこの永遠の食べ物をいただく私たちが、
永遠の命について確信し、慰められるためです。
このことについて私たちは、
この世でも永遠の世界でも、キリストに感謝するべきなのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 6章53節

イエスは彼らに言われました、「まことにまことに私はあなたたちに言います。もしもあなたたちが人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちは自分たちのうちに命をもっていません」。(ヨハネによる福音書 6章53節)

あなたは、私の肉を食べ私の血を飲むか、私の命と私の救いを失うか、どちらかを選ばなければなりません。ここで明瞭にそう書かれているのです。この血や肉がもともとないか、無視され軽んじられているところでは、死のみが支配している、という以外の解釈は成り立ちません。主はこれを「まことにまことに」という誓いの言葉によって確かなものとされました。主が意味されているのは、「私の肉を食べ、私の血を飲みなさい。さもないとあなたは自分の命を失い、救われることはない」ということです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 22章19節

わたしの記念としてこのように行いなさい。(ルカによる福音書 22章19節)
 
「私の」という言葉によって、キリストは、
旧い契約においてイスラエルの人々がエジプトから救い出されたことを
記念する過ぎ越しの祭りの時に屠られる羊のことを傍らに斥けて、
こう言われているかのようです、
「あなたがたは、
新しい契約において私のサクラメントを施行するときに、
私があなたがたのために死んだこと、
私のからだをあなたがたのために陰府や死にいたらせたこと、
私の血をあなたがたのために流したこと、
それによって、
あなたがたのために死と罪と地獄と神様の怒りを消し去ったことを
おぼえなければなりません」。
これは、霊的で永遠なる贖いのみわざです。
私たちは肉体を持っている王の支配から解放されたのではなくて、
罪や死の帝王である悪魔から贖い出されたのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

マタイによる福音書 26章26~28節、コリントの信徒への手紙一 11章23~25節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
(マタイによる福音書 26章26~28節)

私があなたたちに伝承したことは、私が主から伝承されたものです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り祝福して裂き、そして言われました、「これはあなたたちのための私のからだです。私を覚えるためにこれを行いなさい」。同じようにして食事の後、杯を取り、言われました、「この杯は私の血における新しい契約です。飲む度ごとに私を覚えるためにこれを行いなさい」。(コリントの信徒への手紙一 11章23~25節)

「聖壇のサクラメント」とは何でしょうか。それは、パンとぶどう酒のうちに含まれているものとして存在している、主キリストのまことの体とまことの血です。それらは、キリストが御言葉によって私たちが食べ飲むようにと命じられた、パンとぶどう酒のうちにあります。前に洗礼について話したときに、それは普通の水ではないのだ、と私たちは教えました。同じように、聖餐式はパンとぶどう酒ですが、普通の食事のパンとぶどう酒ではなく、神様の御言葉に結ばれ一体となったパンとぶどう酒なのです。御言葉がこのサクラメントを生み出すのであり、普通のパンとぶどう酒とは異なるもの、キリストの体と血、にするのです。「御言葉が物質と一体化するときに、サクラメントが生じます」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 26章26節

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイによる福音書 26章26節)

キリストの明瞭なこれらの御言葉に堅くとどまりましょう。差し出されたパンはキリストのからだであり、差し出されたぶどう酒はキリストの血です。疑わずに、単純な子供の信仰で、この恵みについてキリストに感謝し、喜び、それによって心を励ましましょう。キリストがそうおできになるのか論じ合ったり質問したりせずに、「なぜキリストがそうなさったのか」をおぼえましょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 9章12節

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。(マタイによる福音書 9章12節)

ここでキリストが意味しておられるのは、罪や、死の恐怖や、肉と悪魔の誘惑に苦しめられ圧迫されている人々のことです。もしもあなたの気持ちが重苦しく、自分が弱っていると感じるときには、主に信頼して聖餐式に参加し、聖餐があなたを元気付け慰め強めてくださるようにしなさい。もしもあなたが先に述べたすべてのものから解放された汚れのない立派な者として聖餐式に参加できるような時の到来を待とうものなら、永久に待ち続けなければならなくなるのは確実です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者