タグは ‘苦しみ’

ヤコブの手紙 5章7~8節

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。(ヤコブの手紙 5章7~8節)

神様はすべてのクリスチャンを「忍耐と慰めの学校」にお入れになります。この学校では、私たちはいつも学びの途上にあり、すべてをすっかり学び終えるようなことは決してありません。聖書は悲惨や苦しみや死を消し去ったりはしません。そのため、忍耐が必要になるのです。しかし、聖書は苦しみの只中にある私たちを慰め強め、倦まず弛まず私たちが前進できるように助けてくれます。私たちが勝利を得る時までずっとです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 11章24~26節

信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。(ヘブライ人への手紙 11章24~26節)

キリスト御自身が苦しまれたゆえに受難は非常に貴いものになりました。本来ならば人は、自分がこの賛美されるべき大いなる恵みにあずかるにはふさわしくない、と見なすべきところです。それゆえ、私はお願いします、愛する友よ!苦しみをおそれないように!殺されることさえもおそれないように!あなたたちは(天国の)真の共同相続人としてキリストと共に苦しまなければならないのです。私たちの救い主イエス・キリストが御自分で用意してくださった永遠の栄光に較べたら、この人生の苦しみは何ほどのものでしょうか?
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙二 12章7~8節

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。(コリントの信徒への手紙二 12章7~8節)

このように主はその聖徒たちに対して取り計らわれます。もしも主がこのようになさらなければ、聖徒たちもまた高慢へと落ち込み、自分を神であるかのようにみなすようになったりします。あるいはまた、私たちは彼らを自分の偶像に仕立て上げ、神様の恵みよりも彼らの優秀さや人格の方により細かい注意を向けるようになってしまいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 15章4節

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。(ローマの信徒への手紙 15章4節)

隣人の罪や弱さを耐えることは、決して些細な十字架や苦しみではありません。それどころか、それはある人たちにとってあまりにも重荷であり、そのため彼らはそれを耐えるよりもむしろ自分にも他の人にも死を望むほどです。このような苦難においても忍耐をもちつづけるために、私たちは聖書によって慰めをいただくべきです。パウロは私たちのために大変ひどく苦しまれたキリストを、苦しみを耐え抜かれた模範として提示しているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 8章18節

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(ローマの信徒への手紙 8章18節)

もしも私たちがこの栄光を見るならば、私たちはさぞ立派に耐え忍ぶ殉教者となれることでしょう!もしも川の向こう岸に金貨のつまった箱をもった男が立っていて、「川を泳ぎ渡る勇気のある者は、この金貨をもらえるぞ!」と叫んだとすれば、すぐにでも真剣な水泳競争が始まることでしょう!
(マルチン・ルター、宝石箱)


どんな反対を耐えなければならないとしても、
どんな十字架を担いでいかなければならないとしても、
それはすべて軽く好ましいものにかわります。
キリストが担わせるくびきは、私たちにぴったり合っており、
キリストがくださる荷は、軽いからです
(マタイによる福音書 11章30節)。
罪が赦され、
それによって良心の平安が与えられた今、
クリスチャンは他のあらゆることを容易に耐えることができます。
今や、すべてがクリスチャンにとって
心から好ましく喜ばしいものにかわっているからです。
それゆえクリスチャンは、
たとえ肉的にはさまざまな困難が伴うとしても、
霊的にはすべてを喜んで行い、すべてを耐えるのです。
ところが、人が自分の義によって生きる場合には、
すべての仕事や苦しみは、その人にとって
堪えようもないほど重く苦しいものにかわってしまいます。
その人はそれらのことを、やる気もなく嫌々ながら行うからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

使徒言行録 14章22節

弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録 14章22節)

正直なクリスチャンであろうと望む人は誰でも、
「苦難を経なければ、キリストをしることを学ぶようにはならない」
ということを覚えておかなければなりません。
 
「敵が私の魂を迫害する」と私は言いますが、その意味は、
私の敵が自分の知恵と義によって常に私に反抗してくる、
ということです。
これは、アベルにはカインがおり、イサクにはイシュマエルがおり、
ヤコブにはエサウがおり、キリストにはユダがいたことからわかります。
それぞれ後者は前者の魂と、魂に関わることがら、
すなわち真理と義において、反抗したのです。
なぜなら、傲慢な者たちは
自分の真理と義とが実は何の価値もないことを認めたくはないからです。
それゆえ、彼らは、
神様の真理と義のなかでのみ生きている「真に義なる人々」を迫害するのです。

聖書のあちらこちらで示されているように、
神様が私たち人間を扱う自然なやり方は次のようなものです。
神様はまず人をおびやかし、こわがらせ、その心をくじけさせます。
そのあとで、神様は人を慰め、その心を勇気づけます。
神様はまず肉を殺し、それからふたたび霊を活きたものとなさるのです。
神様はふつうこのようになさいます。
神様は、御自分が引き上げようと望む人を、まず地にたたきつけます。
御自分が活きた者にしようと望む人を、まず殺します。
御自分が義としようとする者を、まず罪人になさいます。
御自分が富裕にしようと望む者を、まず貧しくします。
御自分が天にあげようと望まれる者を、まず地獄に追いやります。
このように、いつも恐怖が前を行き、その後に慰めと喜びが従います。

「敵は私の命を地に打ち砕きました」(「詩篇」143篇3節)。
要するに、敵は栄光をまとって生きており、
社会の上層部を独占して威張っています。
彼らはそうした外見にもとづき、
人々の見ている前でも目立つ上座にのぼります。
それゆえ、私は完全に屈服させられ、
人々の目には見捨てられ蔑まれた存在とならなければなりません。
なぜなら、こうした御言葉によって預言者は、
恵みとキリストの中に生きている人が
いかに取るに足りない存在に見えるか、
示そうとしているからです。
その人に敬意を払う者は誰もいません。
その人は皆の侮蔑の対象となり、
「役立たずの失格者」、
「人々がふつう行うあらゆることに関して危険極まりない人物」
というレッテルを貼られます。
このような目にまだあったことがなく、
その人の善い行い、言葉、決断、計画を
「無用の害悪だ」と嘲笑する敵がまだいない人は、
実はまだキリストの御許に来てはいません。
ただし、「自分自身」が自分の敵になって、
本来なら他の敵がその人に対してやるべきこと(侮蔑など)を、
自分に対して行う場合には、話は別です。
その時、人は、
自分のあらゆる善いわざ、言葉、仕事、生活、そして自分自身を
「役立たずの道化」とみなすでしょう。
そして、心から正直に、また徹底的に、
自分をそのような者としてとらえることでしょう。
  
この世の王国、つまり悪魔の王国は、違反と罪と永遠の滅びの王国です。
しかし、キリストの王国は、義と恵みと平和と永遠の命の王国です。
私たちはこの王国に、主イエス・キリストをとおして移されているのです。
 
あなたは、もしもキリスト信仰者でありたいと望むなら、
宮廷服に着替えなければなりません。
しかし、キリストは宮廷の臣下に「苦しみ」という服以外は賜りません。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ヨハネによる福音書 14章1節

心を騒がせるな。(ヨハネによる福音書 14章1節より)

この慰めの御言葉は私たちの救い主の「決別の辞」全体に明瞭に響き渡っています。その辞のなかで、キリストは弟子たちに平和の遺言を残してくださいました、「なぜあなたたちは恐れ心騒がせているのですか。この私自身が『あなたたちの心を騒がせてはいけない』と、前にも言い今もまた言っているではありませんか。しかも私があなたたちに言うことを、私の父もまた言われているのです」。これに対して天国の天使たちも全員こう叫んでいます、「本当です!」。
(マルチン・ルター、宝石箱)


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(ヨハネによる福音書 14章1節)

「あなたがたの心が悲しまないようになさい」、
とイエス様は言われています、
「今や私は死んであなたがたの目の前から消え、
私のことを知らないこの世にあなたがたを置いていきます。
あなたがたは周りからさまざまな苦しみや不幸に悩まされ
脅かされることでしょう。
しかし、勇気を失ってはなりません!
私はあなたがたを圧迫したり悲しませたりは決してしない、
という私の言葉を覚えておきなさい。
もしもそのようなことが起きたら、それは間違いなく悪魔の仕業です。
羊が自分の羊飼いをその声で知るのと同じように、
あなたがたも私を「恐れるな!驚くな!」という声で見分けることができます。
私の言葉はそのまま私の思いでもあります。
他の声が聞こえるなら、それは私の声ではなく、
私の名前とペルソナに隠れて私のことを真似ている者の声です。
その声に聴き従ってはなりません」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(ヨハネによる福音書 14章1節より)

信仰について間違ったことをせず、
正しいことを行いたいと望む者は、
神様が恵みと救いを備えてくださった場所、
神様を見い出すことができる場所から始めるようにしなさい。
そうしないと、
誤りをおかして信仰と行いの意味もなくしてしまうのは
まず確実だからです。
その人は、自分を欺いて、
何か自分の行いに頼って神様の恵みを得ようとします。
しかし、真のクリスチャンは次のように言うものです、
「ここに私の神様がおられます。
私は、イエス・キリストと一体であられるこの方をおいて、
他の神を信じたりはしません。
この方に私は信頼します。
その時、自分には真の神様がおられることを私は知ります。
もしも私にこの方がいてくださるのなら、
私は悪魔や世に対して強い態度をとり、
それらを軽蔑することができます。
もしも悪魔が私の持ち物や栄光や霊や血を私から奪うとしても、
私には命と死と世と万物の主なるキリストがおられます。
たとえ悪魔が私を脅かして私の良心に重くのしかかってきても、
悪魔は何の勝利も得ません。
ここに私が信じている私の主がおられるからです。
もしも私がこの方を信じるならば、
私は神様を信じることになります。
この方御自身こそが、まことの神様だからです」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルカによる福音書 22章31~32節

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカによる福音書 22章31~32節)

人はあらゆる苦しみや戦いにおいて、神様の守りの中へと急いで逃げ込まなければなりません。人は「自分の身の上に起きるあらゆることは、それを引き起こしたのがサタンか人間かには関わりなく、神様の許可に基づいて起きている」ことを知っておかなければなりません。悪魔や世は私たちから髪の毛一本さえも持ち去ることができない、というのは実に素晴らしい慰めです!言葉で言い表しようのないほど素晴らしい父親的な配慮ではありませんか!
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 50編15節

それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。(詩編 50編15節)

起きて、ひざまずきなさい。まなざしと手を天に向けて、詩編か主の祈りを唱えなさい。そして自分の苦しみを神様へ打ち明けなさい。嘆きなさい。祈りなさい。叫びなさい。神様は、あなたが苦しみを抱いたまま、それを何倍にも大きくして自分自身を痛めつけるのではなく、その苦しみを神様にすべて委ねることを望んでおられるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者