旧約聖書
イザヤ書 33章22節
まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。(イザヤ書 33章22節)
国に平和と秩序を守る王様がいることは、この世においても大切なことです。それと比べると、私たちには天の王様、天の王国すなわち罪の赦し、平和を維持し私たちを悪魔やその手下どもから守り、死やあらゆる悪から救う権威者がおられることは、どれほどより多くの励ましに満ちていることでしょうか。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 33章20、24節
私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。(中略)そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。(イザヤ書 33章20、24節より)
神様は、人間の罪をこの生において取り去りお赦しになるところに、御自分の栄光と恵みを示されます。これが地上における「恵みの王国」です。しかし、完全な救いに満ちている「栄光の王国」においては、罪もその取り巻きである悪魔や死や地獄も、(人に)もはや苦しみをもたらすことはありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 28章29節
これもまた万軍の主から出たことである。主の計らいは驚くべきもので/大いなることを成し遂げられる。(イザヤ書 28章29節)
主が御自分の聖徒たちを導かれるおなじみのやり方を
正確に見極めることにしましょう!
神様の教会や他の事柄について主が行うべきやり方について、
私は主なる神様に対して勝手にルールを決めるという
大胆な態度をとることがよくありました。
「ああ、主よ」と私は祈りました、
「私はあなたがこのことをかくかくしかじかのやり方で
行ってくださるように望みます」。
しかし、神様は私が祈ったのとは正反対のやり方で事を進められました。
そういう時に私は次のように考えたものです、
「私の考えたやり方は神様の栄光と競合しない、非常に有益なものだった。
それは神様の御名を聖とし、御国を広げるものだったからだ、等々。
そうだ、それは実によく考えられたやり方だった」。
しかし、主は私の「賢さ」に対して微笑まれ、
きっと次のように言われることでしょう、
「あなたは理解力があり、よく教えを学んだ者であることを
私は知っています。
しかし、ペトロやマルティン博士や他の誰かから、
私が教えや指導や助言を受けるようなことは、
今まで一度もありませんでした。
私は、誰かが私を教えたり指導したりするのを許すような神ではなく、
それとは逆に、他の者たちを指導し教える神なのです」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
イザヤ書 12章2節
見よ。神は私の救い。(イザヤ書 12章2節前半)
今や私には信頼しているお方がいます、すなわち、もう怒ってはおらず、あらゆる危険や悪から解放してくださる神様です。
(マルチン・ルター、宝石箱)
私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。(イザヤ書 12章2節後半)
こういうものが良心の平和と休息です。良心は神様とは仲直りできており、キリストは解放者、守護者であることを知っているからです。もしも私がいまだに恐れているとすれば、それは悪魔の誘惑か、私の中の古い人のせいです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 9章6節
ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ書 9章6節)
ちょうど父がわが子に、また羊飼いがその羊たちにするように、この方は御国をそのすべての欠点をも含めて担いでおられます。この方は御国の民をその罪のゆえに投げ捨てず、逆に彼らを助けて癒してくださいます。なぜなら、この方の御国は、すべての貧しい罪人にとって、助けと恵みと慰めの王国だからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 9章5節
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ書 9章5節)
この方は、私たち全員の罪の重みをいっぺんに十字架によって担いでくださいました。この方は、私たち皆が昔も今もこれからも行うすべての罪を私たちに代わって御自分に引き受け、それを赦してくださった、という十字架のメッセージを通して、今もなお福音によって私たちの罪を担いでくださっています。これはキリストにふさわしい、慰めのことばです!この方は御国をその肩で担っておられるのです!
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 9章2、5節
あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり人々は御前に喜び祝った。(・・・)ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。(イザヤ書 9章2、5節より)
この子供についてのみ、聖書は「彼は私たちのために生まれた」と言っています。この子は私たちのために生まれ、「私たちのもの」なのです。彼は自分自身のためには生まれる必要がなかったことでしょう。彼が人として生まれてからもっているものや行うことはすべて、私たちに関わりがあるのです。そして、あらゆる出来事は、私たちの益や幸福や救いのために、起こったのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 8章13~14節
万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。(イザヤ書 8章13~14節)
私たちは勇気をもち、世を恐れません。しかし、神様の御前で私たちはへりくだり、神様を畏れ、心の中で神様を聖としなければなりません。主が私たちに与えてくださるものが、よいものであろうとわるいものであろうと、栄光であろうと恥辱であろうと、幸福であろうと不幸であろうと、私たちはそれをよい聖なることとみなして、こう言います、「これは尊い聖所であり、本来私にはその傍にいる資格もないのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 2章3節
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。(イザヤ書 2章3節)
主の道は主のみわざ、とりわけ、主が私たちの中で働かれるみわざです。主は、悪魔の仕業、罪、死、嘆き、恐れ、あらゆる不幸、さらには私たちの日々の堕落までをも消し去って、私たちの中にそれらとは反対のもの、すなわち、希望、正義、忍耐、喜び、平和を生み出してくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
雅歌 3章11節
いでよ、シオンのおとめたちよ/ソロモン王を仰ぎ見よ。その冠を見よ/王の婚礼の日に、喜びの日に/母君がいただかせた冠を。(雅歌 3章11節)
あらゆる王の中の王となられるために、キリストが王国と支配権を得られたとき、キリストの最大の栄光、誇り、心の喜びとは、十字架で死なれることでした。
(マルチン・ルター、宝石箱)
雅歌 2章16節
恋しいあの人はわたしのもの/わたしはあの人のもの(雅歌 2章16節より)
キリストは私のもの、私はキリストのもの。キリストは、私が死にさらされるときに私の命、罪が誘惑してくるときに私の義、私が滅びにおびやかされるときに私の救いです。何が攻め立てて来ようがかまいません!私の前にキリストがおられるようにすれば、悪は私をとりこになどできません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コヘレトの言葉 7章16~17節
善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。(コヘレトの言葉 7章16~17節)
私はクリスチャンにふさわしい生活がどのようなものであるかよくわかっている弟子たちが欲しいです。しかし、彼らには何についても一致した意見がありません。神様をないがしろにして生活したがっている者もおり、聖すぎる生活を望んでいる者もいます。私の言っている意味は、わかる者にはわかるでしょう!私たちにできるのは言葉で叱責することだけです。しかし、神様がそれを彼らの心に刻んでくださらなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
箴言 1章24~26節
しかし、わたしが呼びかけても拒み手を伸べても意に介せずわたしの勧めをことごとくなおざりにし懲らしめを受け入れないならあなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。(箴言 1章24~26節)
キリギリスは冬に食べるものがもう何もなくなったので、アリのところに助けを求めに来ました。「まったく蓄えがないとは、夏に何をしていたのですか」、とアリがたずねると、「歌っていました」、とキリギリスは答えました。そのときアリはこう言い返しました、「もしも夏に歌っていたのなら、冬には踊りなさいな!」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
詩編 124編8節
わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。(詩編 124編8節)
この御言葉は私たちに、
罪と死とあらゆる危険とに対する助けは
「主の御名」にしかないことを教えています。
主の御名がなければ、あらゆる罪と侮りと誤謬に陥ってしまうからです。
私たちの助けは主の御名にあります。
それは私たちをあらゆる悪から守り、
世や悪魔に対して私たちの信仰と命を保ってくれます。
この一節は、すべての詩編と同じく、
神様はその聖徒を試練に遭わせ、
彼らがまるで大水の中に飲まれたかのように
深い苦しみと危機に巻き込まれるようになさり、
しまいには彼らが「もうだめだ」と
あきらめるようにさえなさることを、
私たちに教えています。
一方では、神様は、
御自分の民をしまいまで捨てたままにはされない、
という慰めを与えてくださっています。
御自分の民をエジプトのかまどで辛い試練に遭わせたのは、
「古い人」をその行いとともに死に至らせ、
私たちが主なる神様からのみ助けを捜し求めるようになる、
という御心を神様は私たちにお示しになりたいのです。
このことはあらゆる経験や試練が証していることでもあります。
なぜなら、
考えたり学んだりするだけでクリスチャンになる人は誰もおらず、
実地に訓練を受ける必要があるからです。
つまり、
クリスチャンは自分の十字架を負わなければならないということです。
その十字架は私たち自身の肉(人間としての本質)を
あまりに取るに足りないものにするので、
人は自分の力を疑うようになり、神様の助けに頼って、
それを根気強くゆるがぬ希望をもって待ち望むようになります。
そして、これが神様の恵み深い御心なのです。
私たちは神様をそれとは違うような方だと勝手に想像してはいけません。
苦しんでいる私たちを助け出し
絶望やその他の不幸から救い出してくださるお方として、
私たちは神様を理解しなければなりません。
この教えを知っている人は、信仰の戦いにおいて半ば勝利したも同然です。
しかし、
この教えについて何も知らず、試練にあって悪魔の意志に屈する人は、
絶望するか、あるいは助けをどこか別のところから捜し求めるようになります。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
詩編 118編21節
わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。(詩編 118編21節)
この歌詞は大きな喜びにみちています。
愛にあふれる神様であられるあなたが、
思いもよらない方法で、
また友に接するように、
私たちを支配してくださっているのは、
驚くべきことです。
あなたは私たちをへりくだらせる時に、
私たちを持ち上げてくださいます。
あなたは私たちを罪人にする時に、
私たちを義としてくださいます。
あなたは私たちが負ける時に、
私たちに勝利をあたえてくださいます。
あなたは私たちが苦境に立たされるのを許される時に、
私たちを慰めてくださいます。
あなたは私たちが嘆くようになさる時に、
私たちに喜びを与えてくださいます。
あなたは私たちが苦しみを耐えている時に、
私たちを強められます。
あなたは私たちに窮乏を与えられる時に、
私たちを豊かになさいます。
あなたは私たちを僕になさる時に、
私たちを主人にしてくださいます。
あなたはこれらに加えて
幾多の同様な奇跡を行ってくださっています。
それが、この聖書の箇所に含まれています。
そして、キリスト教会において、
「私はあなたに感謝します。
あなたは私を懲らしめ、
また助けてくださいましたから」、
という短い一節によって賛美されています。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
詩編 117編2節
主の慈しみとまことはとこしえに
わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。[1](詩編 117編2節)
主の恵みとまことは永遠に変わりません。
恵みの王国はこの世でも非常に強いので、
決して揺れたり倒れたりしません。
私たち人間は頼りない存在で、
罪や迷妄のせいで時にはぐらついたり躓いたりしますが、
恵みはびくともしません。
私は新奇な恵みの国を必要としていません。
常に同一の恵みが今も無償で私たち皆に対して差し出されており、
私が再び恵みのもとに戻ってくるのを待っています。
この「船」は壊れません。
洗礼の力は決して消えません。
恵みの王国は崩れません。
この「詩編」が語っている通り、
主の恵みとまことは永遠に存在しつづけます。
私はたとえ船から落ちても、再び乗船します。
洗礼を捨て去ったとしても、再びそこに戻ります。
恵みの王国から迷い出てしまっても、またそこに帰ります。
洗礼と船と恵みは永遠に力強く留まりつづけます。
それらは私の躓きやぐらつきのせいで変わったりはしません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
[1] 「主を賛美しなさい」という意味です。
詩編 116編10節
私は信じます。それゆえ、私は語るのです。(詩編 116編10節より)
「キリストへの信仰」は黙っていることができません。他の人たちもはっきり理解できるようになるのを助けるために、信仰は知っていることを宣べ伝えます。「私は信じます。それゆえ、私は語るのです」。信仰はあまりに善良で憐れみに満ちているため、このように貴重な贈り物を独り占めしておくことができません。ところが信仰が語り始めると、不信仰な偽善者たちは怒り始めます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
詩編 113編5~6節
わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置きなお、低く下って天と地を御覧になる。(詩編 113編5~6節)
神様は、すべてにまして高くあられ、御自分よりも高いものは何もないので、御自分の上方にも傍らにも何も見るべきものがありません。神様のような方は他には存在しないので、神様はただ御自分と下方のみを見ることができます。そして何かが御自分の下方に深く落ち込んでいればいるほど、それだけよく神様はそれをごらんになるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
詩編 111篇10節
主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。(詩編 111篇10節)
学問や芸術の領域では、多くを見聞した者が専門家になれるわけですが、神学や霊的な知恵の領域では、見聞や探究は無益であり、専門家に要求される大切な唯一の基準は「神様の御言葉を聴いて信じる」ことです。何か他の基準をもつ者は道を踏み外します。そのような人は、たとえこの世のあらゆる知恵に精通していたとしても、何もできず正しく説教することもできません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
詩編 110編3~4節
あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」(詩編 110編3~4節)
ダヴィデがキリストを「永遠の祭司」と呼んでいるこの聖書の箇所は、すべてのキリスト教的な教えと理解と知恵と慰めの源泉であり井戸です。それは非常に大きく豊かなので、聖書からこれ以上に豊かで完全な箇所は見つからないほどです。なぜなら、ここでキリストの正しい職務が告げ知らされているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)