新約聖書

ヘブライ人への手紙 4章15~16節

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ人への手紙 4章15~16節)

人は時々疲れるものです。しかし、キリストはいつも(私たちと)共におられ、助けを差し伸べ、こう言われます、「起きなさい、子よ、起きなさい!大丈夫だ、また続けなさい。すべてを乗り越えていくしかないのだよ。失敗はつきものだ、ただ、倒れ伏したままにならないように気をつけなさい」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 4章9~10節

それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。(ヘブライ人への手紙 4章9~10節)

私たち、神の子の尊い血を通して贖われたクリスチャンは、自分を信仰において鍛錬しなければなりません。それは、私たちが死を軽蔑して、それを心地よい深い夢と見なし、棺を主イエス・キリストの懐すなわち天国と見なし、墓を静かな安息所(神様の目には実際にそうなのです)と見なせるようになるためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 4章2節

彼らと同じく私たちにも福音が伝えられたのです。しかし、聞かれた御言葉は彼らにとっては無益でした。福音を聞いた者たちと(福音は)信仰によってひとつに混じり合わなかったからです。(ヘブライ人への手紙 4章2節)

神様が望んでおられるのは、御言葉が、あたかも波の泡か口の中の唾のように、私たちの舌の上で転がっているだけではなく、私たちが御言葉を、あたかもそれが自然に私たちに生え育ってきたかのように、どこにも消えうせたりしない記念碑として心に深く刻むことです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


「イエス・キリストが私のために死に、私の罪を取り去り、私に天国を用意してくださった」ということを耳にするときに、私は真の福音を聞いています。
宣べ伝えられた御言葉によって生じた音響はまもなく止みますが、もしも御言葉が心に根付き、信仰によって受け入れられているならば、その御言葉は決して消えることがありません。
そして、この真理を無効にするような者は存在しません。
地獄の門もこれに対して何も手出しできません。
私が悪魔に呑み込まれそうになっている場合でさえ、私が御言葉をもっているならば、悪魔は私を解放するしかないのです。
こうして、私は御言葉の中で守られていきます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヘブライ人への手紙 3章14節

もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。(ヘブライ人への手紙 3章14節)

私たちの心はいつでも、信仰生活の初日を迎えている人たちのようでなければなりません。私たちの考えはいつでも、今まで一度も福音を聞いたことがないかのようでなければなりません。私たちは毎日、最初から始めなければなりません。信仰というものを特徴付けているのは、絶え間ない成長です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 3章1~3節

だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。(ヘブライ人への手紙 3章1~3節)

「自分は聖くない」とクリスチャンが言うならば、それは大きな恥であり神様を侮ることになります。なぜならその場合、キリストの血も神様の御言葉も聖霊様も恵みも、さらには神様御自身さえも、聖くないかのように見えてくるからです。これらすべてのものを神様はクリスチャンにあふれるほど豊かに与えてくださいました。それはクリスチャンが聖くあるためなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 2章16~17節

確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。(ヘブライ人への手紙 2章16~17節)

私のことをキリストほどよく理解してくれる人はほかにいません。キリストほど私の近くにいてくれる人もいません。キリストほど私に親しく心のこもった関係にある人もほかにいません。それほど、キリストは私を御自分と共にいるようにと、ごく近しくまたしっかりと関わってくださっています。私は、ほかならぬキリストからあらゆるよいことをいただける、と期待してよいのです。なぜなら、心の正しい父親が自分の小さな子供を愛するよりもさらに優しく、キリストは私を愛していてくださるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 2章11~12節

事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、(ヘブライ人への手紙 2章11~12節)

この箇所で特に注意を払うべきなのは「兄弟」という言葉です。ここで神様が保証されている通り、もしもキリストが私の兄弟ならば、私はキリストと共に、財産、遺産、キリスト御自身のすべてをもっていることになります。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 1章14節

天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。(ヘブライ人への手紙 1章14節)

もしも私が、天地の造り主なる神様が私のお父様であることを完全に理解するならば、次のことも理解できるでしょう。私も天地の主であり、キリストは私の兄であり、キリストの富はすべて私のものであり、ガブリエルは私の召使であり、ラファエルは私の御者であり、すべての天使は天のお父様が困っている私を助けるために与えてくださる私に仕える霊である、ということを。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テトスへの手紙 3章4~5節

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。(テトスへの手紙 3章4~5節)

使徒はこの「洗い」を「再び生まれること」と呼び、また「聖霊様によって新しくされること」と呼んでいます。それは、恵みの大きさと力が私たちにはっきり示されるためです。この洗いは非常に偉大なわざなので、それを行えるのは被造物ではなく、ただ聖霊様のみです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テトスへの手紙 3章4~7節

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。(テトスへの手紙3章4~7節)

洗礼において私たちに与えられた神様の恵みを、パウロは大いに賛美しています。パウロは洗礼を、手や足だけではなく、からだ全体の洗いとみなしています。洗礼は人間全身をいっぺんにきれいにし、幸いな救いに与るものにします。この救いを与り受け継ぐために必要なのは、神様の恵みへの信仰だけです。それは、私たちが自分の善い行いによってではなく、ただただ恵みによって、救いに与り、神様の憐れみを永遠に愛し、純真に賛美し感謝し敬うようになり、また、栄光を求めて自分の能力に頼ったり自分で自分を助けようとしたりはしないようにするためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テトスへの手紙 2章11~12節

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え(テトスへの手紙 2章11~12節)

神様の恵みは、偉大で強力です。恵みは、魂の中で何もしないで眠り込んだりしません。また、寝惚けた説教者たちがわめいているように、恵みを好き勝手に用いることもできません。そうではなく、恵みは、自分について告げ知らせ、人全体を、持ち上げ、運び、支え、自分に近づけ、形作り、柔軟にします。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テモテへの手紙一 6章17節

この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(テモテへの手紙一 6章17節)

もしも主があなたにこの世のよいものを豊かに与えてくださるならば、それを主の栄光のために用いて、主の善性を喜びなさい。ただし、花婿から高価な指輪を受け取った花嫁のように喜びなさい。花嫁は、指輪が高価であることを喜ぶのではなく、彼女がそれを花婿の栄光のために身に着けるようにと花婿がそれを与えてくれたことを喜ぶのです。神様はあなたを御自分の善性によって祝福なさいました。その神様の善性のおかげで、あなたの心がやわらかくなり、神様を感謝するようになりますように。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テモテへの手紙一 6章12節

信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。(テモテへの手紙一 6章12節)

私たちは危険な場所、敵や殺し屋たちの只中に住んでいます。彼らの心の中にあるのは悪いことばかりです。彼らは私たちの宝物を奪い取ろうと脅しています。私たちは瞬時も彼らの危険から解放されることがありません。ですから、誰であれクリスチャンは、直ちにキリストの旗のもとに避け所を求め、一生の間戦い続け、あらゆる方角に向けて敵の監視を続けなければならない、ということを理解しておきなさい。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テモテへの手紙一 1章15節

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一 1章15節)

私は、キリストの御名と力によって自分が罪から自由の身であると宣告されている、と確信しています。このことに堅く信頼している心の持ち主には何も悪いことが起こらないし、滅んでしまうこともありえません。それはちょうど、神様も決して嘘をついたり悪いことをしたりなさらないのと同じです。私はそれをあなたに保証できます。なぜなら、神様御自身がこれをあなたに御言葉において保証されているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テモテへの手紙一 1章9節

律法は、正しい者のために与えられているのではなく(テモテへの手紙一 1章9節より)

「もしも私に絶えず罪がある場合には、それは正しくないことでしょう?」。
答え。
「そう、私は罪人で悪いことをしているけれど、
こんな疑問を抱いたり、地獄へと急いだり、
律法から逃げてみたところで、何も始まりません。
私のためには、モーセよりもさらに上方にある「みわざ」があります。
それによって私は、「私をつかまえてくださった方」につかまります。
私は、
「私を洗礼において受け入れて、抱きかかえ、
福音を通して「御自分のもの」にあずからせ、
御自分を信じるように命じておられるお方」
にしっかりとつかまります。
この方がおられる御許から、
ファリサイ人、モーセや十戒、
律法学者全員と彼らの書物全部、
全人類とそのあらゆる行いが黙って退去するように、
彼らに命じなさい。
この方の御許では、
たとえ私がするべきことをしなかった場合でも、
律法には私に対して責めたり要求したりする権利はまったくありません。
私は、自分に欠けているすべてのものを、
キリストにおいて豊かにいただいているからです」。
まとめると、こうです。
「外なる人」(「生身の人間」)の上に
あまり重すぎるものを載せすぎてはいけないし、
無理やり担がせてもいけません。
とりわけ「良心」の上には、一切何も載せてはいけません。
なぜなら、
キリストを私たちにもたらす御霊のおられる御許では、
人はあらゆる律法の上方にいるからです。
パウロが、
「律法は正しい者(義なる人)のために定められてはいません」、
と言っている通りです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

テサロニケの信徒への手紙二 3章11~12節

ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。(テサロニケの信徒への手紙二 3章11~12節)

あなたは、怠けたりお金を無駄遣いしたわけでもないのにお金が無くて困っている人たちを助ける義務があります。多くの人は自分で生活費を稼ぎたいと望んでいますが、かないません。一方では、自分で十分に生活費をまかなえるのに、収入以上の贅沢な生活をしている者もいます。そのような者たちを助けてはいけません。もし助ければ、彼らが不正にお金を集めることに手を貸すことになるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テサロニケの信徒への手紙一 5章17節

絶えず祈りなさい。 (テサロニケの信徒への手紙一 5章17節)

私たちクリスチャンは、
いつも口で祈るわけではないにせよ、
すくなくとも心の中では、
絶えず祈ることを義務付けられています。
なぜなら、
神様の御名が聖とされ、御国が到来し、御心が行われ、
神様が私たちのために地上に
平和とよい天候と健康な体を与えてくださるように、
皆が毎瞬ごとに心から望むべきだからです。
こういったことを絶えず心で望むのが
クリスチャンというものです。
 
神様の御名が聖とされ、御国が到来し、御心が行われ、
神様が私たちのために地上に
平和とよい天候と健康な体を与えてくださることと望むこと、
これが霊的な祈りであり、心からの祈りなのです。
私たちはこうした祈りを本当に必要としています。
というのは、
私たちの周りには、
罪や恥辱に落ち込む危険が待ち受けているので、
悪魔や自分自身の肉的な欲望に対して
一瞬たりとも気を緩ませることができないからです。
 
心の中だけではなくて、口にも出して、祈っていくことが大切です。

祈りによって私たちは戦い、祈りによって私たちは勝ちます。

主なる神様は、
御自分に乞い求める者たちが激しいほど熱心であることを、
喜んで見ておられます。
それゆえ、
私たちはこの「乞い求める技術」を学ぶべきです。
それは、
私たちがよく神様に祈るためであり、
神様を避けたり神様に祈ることを躊躇したり止めたりしないためです。

神様は
たくさんのことを私たちに与えたいと望まれており、
それが御自分の栄光を輝かせることにもなると思われています。
私たちが神様から多くのよいことを期待して祈るのは、
神様にとって喜ばしいことなのです。
 
愛する兄弟姉妹の皆さん、
心の中で祈ってください。
時々は口でも祈りなさい。
なぜなら、
神様は活きておられ、
祈りは世界を支え保っているからです。
祈りがなければ、
世界はまったく違った様相を呈することでしょう。
 
祈るクリスチャンは皆、
助け手であり癒し手です。
さらに彼らは、
世の支配者であり「神々」でさえあります。
彼らは世界を支え続けている「足」なのです。
世は、このことの報酬として、
彼らに対して、
周りから圧迫され侮蔑された生活、
汚らしい泥の中を歩むことを余儀なくする生活
を強います。
 
「もしも自分が救われており、
熱心に祈ることができるのなら、
私の祈りは神様に聴かれるだろうに」、
とあなたは言うかもしれません。
私は答えます、
「もしも、「自分が救われている」、と感じないかぎり
祈ろうとしないなら、
あなたは決して救われたりはしないでしょう。
なぜなら、
私たちの祈りは自分の救いに基づくべきものではなく、
神様の不変の真理に基づくべきものだからです」。

もしも祈りを軽んじる場合には、私たちには何の防御もありません。

祈ることはクリスチャンの手芸です。
祈りの本質と性質は、
思いと心を神様の方へと上げていくことにほかなりません。
この霊的な祈りが絶えず行われますように。
身体を使う仕事を行っている間にも。
 
天の父なる神様は、
私たちがあまりにも頻繁に願い祈り求めるせいで
疲れてしまうような人間ではありません。
あなたが祈れば祈るほど、
神様は、より深く喜んで、あなたの祈りを聴いてくださいます。
神様に、すべてをはっきりと正直に告白しなさい。
小出しにはしないで。
なぜなら、神様も、
ちょっぴりまぶす程度に小出しにしたりはなさらずに、
洪水のように、
あなたの上に注ぎかけてくださるからです。

祈りがいかに強力なものであるか、
祈りがいかに多くのことを達成するか、
ということは、
経験を通してそれを自分で学んだ者でなければ、
誰も信じようとはしないでしょう。
大きな危険にさらされているときに、
祈ることができるのは本当に素晴らしいことです。
真理にあって祈った時には、
私の祈りは十分に聴かれ、
私は願い求めたよりも多くのことを
いただいてきた体験が私には何度もあります。
なるほどたしかに神様は、
すぐには私の祈りを聴いてくださらなかったことがありました。
しかし結局は、
それらの祈りもちゃんと聴かれたのです。

確固とした熱情的な祈りは、
途絶えることがなく、疲れも知りません。
それは最後の瞬間まで待ち望み続けます。
それは天と地を貫きます。
ですから、
このような祈りが聴かれないままに終わることはありえません。
なぜなら、
私たちがそのように祈ることは、
神様にとって喜ばしいささげものだからです。
 
祈って戦いましょう。
なぜなら、
信仰の言葉と義とされた者の祈りとは、
あらゆるものの中で最高の武器だからです。
靴屋が靴を作るように、
仕立て屋が外套を縫うように、
クリスチャンは祈らなければなりません。
祈りはクリスチャンの職務です。
 
何かよいことが起きる場合には、
それは祈りを通してのみ実現していきます。
そして、
祈りは広大な権力を有する皇帝にたとえられます。
 
人間の生活にかかわる事柄に関して、
私たちはすべてを祈りを通じて行います。
整っていることを私たちは制御します。
欠けていることを私たちは正して直します。
私たちは苦しみに耐えます。
私たちはあらゆる不幸に勝ちます。
私たちはすべてのよいものを保ちます。
祈りによって。
 
暴力や権力に対抗するためには、
祈りに勝る助言はありません。

ヒエロニュムスは
アガトンというあるクリスチャンの先達について語っています。
このアガトンという人は沈黙することを学ぶため
30年間も口に石をくわえていました。
しかし、彼はどうやって祈ることができたのでしょうか。
彼が心の中で祈っていたことは疑いもありません。
そしてこのような祈りは
神様に喜んで受け入れていただけたことでしょう。
なぜなら、
神様はまさにこのような祈りを探し求めておられるからです。

もしも自分の祈りが聴かれなかったことに自分で気が付いたなら、
あなたは正しく祈ってはいないのです。
何が神様の御名を聖とすることにつながるのか、
何が神様の御国を広げていくことになるのか、
何が神様の御心を実現させていくのか、
私たちが正確に知るのは難しすぎるし、
どのようにして神様があなたに御自分のパンをお与えになるのか、
どのような方法で試練や危機や悲惨から救い出してくださるか、
を正確に知ることもとても難しいからです。
 
私たちが何を祈るべきであるかについては、
言葉で表すことができますが、
いつ、どこで、どのようにして祈りが実現するかについては、
私たちは把握できません。
 
危機がすぐそこまで迫ってきた時には、
「主の祈り」が教えているように祈らなければなりません。
すなわち、
「神様、私を助けてください、
もしもそれによって神様の御名が聖とされ、
神様の御心が実現することになるならば」、
とあなたは祈らなければなりません。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

テサロニケの信徒への手紙一 5章14節

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。(テサロニケの信徒への手紙一 5章14節)

私はいろいろなことを学んだ博士ですが、ある(信仰の)兄弟の言葉からしばしば助言や忠告を受けました。この兄弟は何に関しても自分を私と同等にはみなしていませんでした。人が危機に瀕したときに、(信仰の)兄弟の誰かが聖書から読んで聞かせてくれる御言葉は、力強くまた尊いものです。なぜなら、聖霊様を聖書から分け隔てることはできないからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テサロニケの信徒への手紙一 4章3、6~7節

実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、(中略)このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。(テサロニケの信徒への手紙一 4章3、6~7節)

もしもあなたが何かを暴力や不正によって奪取するならば、誰かがあなたに同じことをするでしょう。神様は強盗を他の強盗によってたいへん上手に懲らしめなさいます。もしそうでなければ、私たちはいったいどこから絞首刑に必要なだけの木や縄を得ることができることでしょうか。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コロサイの信徒への手紙 3章23~24節

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。(コロサイの信徒への手紙 3章23~24節)

貧しい召使は次のように言うことができます、「私は食事を作ったり、ベッドを整えたり、床を掃除したりしています。私の主人がそうするように言ったからです。でも、誰が私を私の主人の家族に仕えるようになさったのでしょう?それは神様です。私は彼らにだけではなくて天の神様にもお仕えしている、というのは本当です。そして神様は私のやっていることを喜んでくださっています。これほど幸福なことはほかにはありません!」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者