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ローマの信徒への手紙 4章5節

しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(ローマの信徒への手紙 4章5節)

信仰と、キリストと、恵みを受けること(人が神様に認められること)、
この三つは互いに結びつけて理解されるべきです。
信仰は
「キリストが共にいてくださるお方である」と理解し、
キリストを「自分のもの」として受け入れます。
さらに信仰は、
ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているように、
信仰の中にキリストがおられることを認めます。
このようにして心の中でキリストを信頼する人を、
神様は義とみなしてくださいます。
そしてこれは、
私たちが罪の赦しと義をいただける根拠であり報酬なのです。
神様はこう言われます、
「あなたは私を信じており、
あなたの信仰は、
私があなたに仲介者や大祭司として与えたキリストを、
ちゃんと理解しています。
それゆえに、あなたは義とされています」。
神様は、私たちを御自分の恵みの中に導いてくださいます。
すなわち、私たちを義と認めてくださいます。
それは、私たちがイエス様を信じているからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 10章14~15節

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。(ヨハネによる福音書 10章14~15節)

ということは、私たちは自分の中にある何かや自分を通して生じる何かに基づいてクリスチャンになるのではないのです。それではどのようにして私たちはクリスチャンになるのでしょうか?キリストを知り、キリストを愛することによって、また、御自分の羊のためにその命をささげまた御自分の羊のことを知っているよい羊飼いとしてキリストを受け入れることによってのみ、私たちはクリスチャンになるのです。そして、キリストもそのような方であられたいと望まれていま。これを知ることが、ほかならぬ福音の御言葉によって生じる信仰なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 6章44節

わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネによる福音書 6章44節)

自分で自分を救うことができないとわかり、(聖書の)教えを受け入れて自分を救ってほしいと願う人たちが、僅かとはいえ今もなお存在します。彼らは自分自身に欠点があることを知っており、またそれゆえ嘆き怯えている良心の持ち主たちです。彼らは御言葉をいくら聴いても読んでも、決して飽きることがありません。彼らは御言葉を真剣に受け取り、自分自身の義や正しさについては何も知りません。彼らは聖霊様の力によって神様へと自分たちが引き寄せられていくのにゆだねています。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 3章16節

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書 3章16節)

信仰こそが、宝物を収める器です。
神様が「与え手」として私たちに賜るように、
私たちは信仰を通して「受け手」となるからです。
この信仰は、賜物を受け取る以外には何もしません。
この賜物が「私たちのもの」であるのは、
私たちの行いや功績のおかげではありません。
すべては私たちへの贈り物なのです。
口というより心を開いて、じっとしていなさい。
そして自分をそれで満たしていただきなさい(詩編 81編11節)。
信仰とは、「私たちが御子のおかげで滅びずに永遠の命をいただけるように、
神様はその独り子を賜った」、と本当に信じることです。
そのような信仰は、自分の力を省みたりしないし、
「自分はそれにふさわしい存在かどうか」などとは悩みません。
信仰は、自分に目を向けるのをやめて、
キリストに堅くつながり、キリストを「自分のもの」として受け入れます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 1章11~13節

言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(ヨハネによる福音書 1章11~13節)

信仰は私たちの中における神様のみわざです。信仰は私たちを変え、新しく生み、古いアダムを殺し、心や思いや力に関して私たちを新しい人間にし、私たちに聖霊様を与えてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 14章24節

言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。(ルカによる福音書 14章24節)

福音の説教を受け入れない者は、たとえどんなに賢く上流の者であっても、ここで裁きを耳にすることになります。彼らは神様の晩餐にあずかることができず、神様の怒りが彼らの上に留まり、そして彼らは不信仰のゆえに滅びるのです。しかし、福音を受け入れた私たち、心が罪におびえて神様の恵みを斥けたりしない私たちは、怒りの代わりに恵みをいただき、罪の代わりに永遠の義をいただき、死の代わりに永遠の命をいただきます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 11章25~26節

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。(マタイによる福音書 11章25~26節)

神様はこう言われます、「私は福音を明瞭な言葉で書かせ宣べ伝えさせたいと望んでいます。しかしすべてはどのように聖霊が光を与えるかによって決まります。聖霊が光を与えるのは、私の言葉を真面目に受け入れる単純なひとにぎりの人たちだけに対してです。他の者たちに対しては、あのエジプト人たちに対してのように、聖霊の光は深い暗闇に包まれたままです。どれほど明瞭に私の言葉が宣べ伝えられ説教されたとしても、それは彼らにとってはただ侮辱と堕落を招くことになります。彼らは私の言葉に躓き、それを嘲って反抗し、ついには滅んでいくのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 5章5節

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカによる福音書 5章5節)

これはすばらしい信仰のあらわれです。
ここでのペトロのように
自分の考えにいっさいとらわれずに、
ただ御言葉のみにしっかりとつながることができるなら、
どんなによいでしょうか。
主人が召使に「これをしなさい」と命じて、
召使がその通りにするならば、
主人はそれを喜びます。
たとえ召使が失敗しても、
主人はそれで怒ったりはしません。
しかし、それとは逆に、
もしも召使が主人よりも賢くあろうとし、
「ご主人様、それはだめです。
私も前にやってみましたが、うまくいきませんでした。
だから、私はそうしたくありません」、
などと言うならば、
主人の機嫌を損なうことになります。
それゆえ、
私たちが神様と御言葉に対して
ここでのペトロのように接することを、
神様はすばらしい栄光とみなしてくださいます。
そして、
たとえ理性がいまだに私たちを他のほうに向かわせようとしても、
私たちは立ち止まり、こう言うのです、
「理性よ、お前はあちこちに揺れ動いているが、
ここに神様の御言葉と戒めがあるのだ。
そこに私はとどまりたい。
そして、こうして御言葉にとどまれるならば、
私たちの主も天の御使いたちも皆喜んでくださるのだ」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


ペトロのように
一晩中仕事をして何の成果も得られないときには、
試練に遭うものです。
そういうことがあると、
私たちはすぐに心配になり、
愚痴をもらし、忍耐がなくなり、
「全部を放り出してどこかに行ってしまいたい」、と考えるものです。
しかし、私たちはこのような試みに隙を与えずに、
絶えず与えられた仕事を忠実に果たし、
仕事の成果については神様御自身にお任せしましょう。
なぜなら、私たちは、
御言葉に忠実な善良な義なる人々が何をやってもうまくいかないことを、
しばしば目にしているからです。
しかも、それとは逆に、
神様に反抗している悪い人々が
すべてにおいて彼らの希望通りに成功したりしています。
しかし、このような状態は長くは続きません。
はじめに失敗した人はしまいには成功し、
はじめに成功した人はしまいにはうまくいかなくなるからです。
あなたが不遇な目にあう場合には、
忍耐をもって仕事を続け、疲れ切ってしまわないようにしなさい。
御言葉への忠実を貫いて失敗するほうが、
御言葉を無視して成功するよりもよいことだからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルカによる福音書 2章15節

「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカによる福音書 2章15節より)

人間的な信仰と神的な信仰の真の違いは次の点にあります。人間的な信仰は、特定の人間に頼り、メッセンジャーがほかならぬその人であるという理由でその言葉を信用して敬います。それに対し、神的な信仰は、神様御自身がその中におられる御言葉にしっかりと留まり、それを伝える人が誰であるかには関わりなく、それが真であることを受け入れて敬います。(・・・)こうした信仰は、生きていても死んでいても、地獄でも天国でもくずれません。誰もそれを滅ぼすことはできないのです。そのような信仰は、御言葉に基づいているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 16章18節

わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。(マタイによる福音書 16章18節)

信仰は海を乾いた道に変えますが、不信仰はペトロの乾いた道を再び海にしてしまいます。信じる者にすべてが可能です(「マルコによる福音書」9章23節)。それとは反対に、信じない者にはすべてが不可能です。信仰は「神々」すなわち「神様の子供たちや奇跡を行う者たち」を生み出し、不信仰は「人間」すなわち「悲惨の子ら」を生み出します。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ゼカリヤ書 9章9節

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ書 9章9節)

この王様の御国に属し、堅い信仰をもって王様から離れずにいる者のことを、罪も死も、地獄も悪魔も、人間もどんな被造物も傷つけることはできません。そのような人は、救いの喜びに満ちた罪のない者として、その王様と同じように永遠に生きるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨエル書 3章5節

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル書 3章5節より)

まずなによりもこの「皆ひとりひとり」という無制限の言葉に注目しましょう!それは誰をも救いの外へ閉め出したりはしません。この救いを神様は、御自分に助けを求めて叫ぶ者に御自分の自由意志によりただで与えることを約束しています。私たちはこのことを知らなければなりません。人間の心なるものは、神様の御言葉に信頼しない間は、「神様は誰を憐れんでくださるか」という問題について危険な考えを思いつくものだからです。この「ヨエル書」にある約束は神様の憐れみを例外なくすべての人に提供しています。また、神様の御言葉に仕える者には皆ひとりひとりに罪の赦しを宣言するように、命令を受けています。
(マルチン・ルター、宝石箱)


この御言葉に、私たちの救いのすべてはかかっています。
そのように素直に理解するべきです。
「救われる」と預言者ヨエルは言います。
それは、人が罪や死や地獄からあがないだされることです。
人はこうして、
この世での惨めな人生を通って、永遠の命へと入って行きます。
それはひとえに聖霊様のおかげです。
預言者ヨエルによれば、
聖霊様はあらゆる肉の上に注ぎだされており、
人が主の御名を呼ぶようにと働きかけてくださいます。
これはパウロも等しく強調したことです。
すなわち、
人は、律法の行いなしに、信仰を通してのみ義とされるのです。
なぜなら、
「主の名を呼び求めること」は「信じること」と同じだからです
(ローマの信徒への手紙 10章)。
まず第一に、
福音を宣教する人々を派遣しなければなりません。
この派遣によって福音が他の人々に聞かれるようになります。
福音を聴くことによって、信仰が与えられます。
信仰は、救いを求めて主の御名を呼ぶ心を起こします。
そして、この呼び声は救いをもたらします。
キリストの王国は、
神様の御言葉に基づく信仰の王国であり、
そこで、私たちは、
自分の力によってではなく、
私たちがまだ敵であったときから
私たちを愛してくださっている
神様の「自由な恵み」によって、
救われるのです。
また、神様は、
私たちの心に聖霊様を送って、
私たちが救いを求めて御名を呼ぶように
働きかけてくださいます。
まさにそれゆえに、
私たちは救われるようになるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


私たちはこの世での人生の間、
主を面と向かって見ることができません。
それゆえに、
主の「御名」と預言者は言っているのです。
私たちはこの世では「信仰の王国」の中で活きています。
神様の御名とは神様の御言葉のことです。
それを私たちは聴くのであり、
そこに私たちの富があります。
死ぬ時までは、
これを超えるものを何も私たちはもっていません。
しかし、死んだ後で、
私たちは主を面と向かって見ることになります。
「皆」という言葉に特に注目しましょう。
神様は、御自分を呼び求める者に対して、
自由な御意志により無償で約束してくださった救いから、
誰一人除外なさらないのです。
このことを知っておくのは、
御言葉の根拠なしに、
御言葉に反して吹聴されている
「恵みに関する選び」という、
あの危険な考え[1]を斥けるためにも大切です。
神様は私たちに御言葉を送ってくださるので、
誰あろう私たちこそが
恵みによって選ばれているのです。
私たちは、
神様がはっきりくださっている約束に信頼し、
救いを求めて神様の御名を呼び、
自分は救われる、と確信をもつべきです。
「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
あなたの御名の栄光を輝かせてください。
御名のために、わたしたちを救い出し
わたしたちの罪をお赦しください。」(詩編 79編9節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

[1] 人間的な基準によって、ある人は神様の恵みにあずかっているが、ある人はあずかっていない、と判別する考え方をさしているものと思われます(訳者注)。

イザヤ書 42章1節

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。(イザヤ書 42章1節)

キリストは神様の御心に適うお方です。私たちがキリストを愛するとき、私たちもまた神様のご好意をいただけます。私たちはその中で十分に守られているのだ、と思います。詩編91編10節)に言われているように、そこには悪が入り込む余地のない自由の都があります。神様の御心に適うためには信仰が不可欠です。どんな律法も助けにはならず、どんな行いや業績も十分ではありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

イザヤ書 35章4節

見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。(イザヤ書 35章4節より)

神様の恵みを誰も疑ってはなりません。全世界とすべての罪に対抗してでも神様の助けに信頼するべきです。しかし、自分自身はまったくだめだとみなすべきです。「ほんの小さなよいことぐらいなら行える」などと思ってはなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 116編10節

私は信じます。それゆえ、私は語るのです。(詩編 116編10節より)

「キリストへの信仰」は黙っていることができません。他の人たちもはっきり理解できるようになるのを助けるために、信仰は知っていることを宣べ伝えます。「私は信じます。それゆえ、私は語るのです」。信仰はあまりに善良で憐れみに満ちているため、このように貴重な贈り物を独り占めしておくことができません。ところが信仰が語り始めると、不信仰な偽善者たちは怒り始めます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 1篇6節

神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。(詩編 1篇6節)

いたるところで人々は義なる人の道を捨ててそれをさげすみ、「神様もその道を知らないだろう」などとうそぶいています。それは、信仰と知識とが「十字架の知恵」だからです。神様おひとりが義なる人々の道を知っておられます。その道は義なる人々からも隠されています。神様の右の御手が彼らを奇跡のように導いていきます。それは「感情や理性の道」ではなく「信仰の道」です。この道は暗闇の只中を貫通し、そこで私たちは見えないものを見ることになるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者