タグは ‘神の御言葉’
ヨハネの手紙一 5章11節
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。(ヨハネの手紙一 5章11節)
イエス様の御名はこの世のいたる所で御言葉の中に響いています。イエス様は私たちの只中で目に見える存在であろうとはなさらず、むしろ、私たちがイエス様のことを御言葉の中に聴くことを望んでおられます。来るべき世では、イエス様の御名を宣教することはなくなり、私たちは神様の独り子を目にすることになります(「ヨハネの手紙一」3章2節)。この世では、私たちはイエス様を見ませんが、御言葉の中に聴くことができます。神様の独り子の御名がすべてにおいて大切な唯一のことです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ペトロの手紙二 1章20節
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 (ペトロの手紙二 1章20節)
私たちは畏れとへりくだりの心を持って
神様の御言葉を読まなければなりません。
自分自身の賢さに頼って御言葉を説明しようとしてはいけません。
自分の賢さほど、私たちの妨げとなる有害な罪は他にありません。
御言葉を軽々しくあしらってもいけません。
聖書を読んでいて、もしも理解できない考えに出会ったなら、
帽子を外して敬意を表し、その先を読み続けましょう。
御言葉を侮ってはいけません。
人間の理解に合ったやり方で説明付けてもいけません。
御言葉には最大限の真摯さをもって接するべきであり、
御言葉を尊敬し、貴重なものとみなすべきです。
もしも気の向くままに御言葉に評価を下す態度を取るなら、
私たちは自己欺瞞に陥って窮することになります。
「自分の賢さ」という沼に沈んでいく者を、
そこから助け出すのは、容易なことではありません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ペトロの手紙一 3章14節~15節
しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(ペトロの手紙一 3章14節~15節)
不幸な出来事で苦しめられていても、「神様に賛美と感謝あれ!」と言えるときには、私たちは主キリストを心の中で聖とあがめています。私たちは神様を聖なる方として賛美しなければなりません。神様の御言葉を信じるときに、私たちはそうしてます。私たちが正義のために苦しむときに、神様は私たちをお見捨てにはなりません。憐れみをもって私たちと共に歩み、私たちを助け、私たちの敵に復讐してくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヤコブの手紙 4章5~8節前半
それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。(ヤコブの手紙 4章5~8節前半)
人間の理性にきれいに調和し喜びを与えるようなやり方を利用して、常に悪魔は忍び寄ってきます。それで、それを信じる者が沢山いるのです。悪魔と戦うためには、御言葉にしっかりと結びついた高度に霊的な理解力が必要です。さもなければ、悪魔の手口を理解することも、打ち破ることもできません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。(ヤコブの手紙 4章7節)
どうしてあなたは
不用心に上機嫌で生きていられるのでしょう。
あなたを個人的に攻撃してくる
「この世の暴君」がいるではありませんか。
しかもこの敵は
全力であなたを倒すために武装しているのです。
私たちは普段
あまりにも物事を軽く考えて不用心に生活しています。
あたかも悪魔が弱々しいハエであるか、
あるいはとうの昔に死んでいるかのようです。
あたかも悪魔に対するクリスチャンの戦いが
ほんの些細なことであるかのようです。
悪魔はその手下の小間使いたちと共に
インドやトルコやどこか遠くにいる、
と思ってはなりません。
悪魔はあなたのすぐ近くにいることを知っておきなさい。
悪魔は毎日、
あなたの周りや部屋や、通りなど、
あなたがいるところならどこにでもいるのです。
悪魔は、
私たちがキリストを深く理解するのを妨げ、
私たちがキリストよりも誰か他の友達を
頼ったり信じたりするようにさせる専門家です。
確かにキリストは
一本の指や一言の言葉で悪魔に勝ち、
激怒する悪魔を完全に粉砕することができます。
にもかかわらず、キリストは、
私たちをその仕事に用いたい、と思っておられます。
神様は、
質がよいとは言えない弱い「器」である
私たちクリスチャンを対置することで、
この傲慢で強大な「魂の敵」を侮蔑したいと思っておられます。
この器は、悪魔とくらべれば、嵐に対抗する火の粉のような存在です。
本来なら、嵐は火の粉をひと吹きで消すことができるはずです。
しかし主は、そのような弱い器を通して、
この尊大な敵に勝利し支配することを示されたいのです。
悪魔は自分に対して、
神様が「惨めな手段」(私たちクリスチャン)を対置することに苛立ち、
私たちを陶器のようにいっぺんに粉々に砕こうと、
一番恐ろしいやり方で私たちに襲いかかってきます。
ですから、そのような攻撃に対して、
神様の力によって自らを武装しましょう。
戦いは主のものであることをわきまえつつ。
次のようにして、悪魔は私たちに襲いかかってきます。
悪魔は自分の毒を元に「おいしい食事と薬」とを作り出し、
それとは反対に
健康によいはずの薬を元に「殺すような毒」を作り出します。
悪魔は悔い改めようとはしない者たちを
罪の中でいっそう不用心にし、
偽りの慰めにいっそう頼るように仕向けます。
その一方で悪魔は、
貧しく悲しんでいる心の持ち主たちを、
本来なら彼らの慰めであり喜びであるはずのことがらによって、
逆に心配するように仕向け、おびえさせます。
悪魔と言い争うのはやめなさい。
倦むことなく目を主に向けなさい。
神様が教会をお建てになると、
その傍らに悪魔はチャペルを建てるものです。
悪魔は次のような考えを吹き込むことによって
私の祈りを邪魔しようとしたものです。
「なぜお前は祈ろうとするのか。
お前は自分が誰で神が誰だか知らないのか。」
しかし、私は神様の恵みによって力づけられ、
悪魔が私に対して争ってくるときに、
もはや悪魔から身を避けたりはしなくなりました。
それどころか、
聖霊様のお助けによって
悪魔をその自分の剣によって追い出しました。
私はそのときこう言ったのです、
「悪魔よ、お前は「私が罪人だ」ということを理由に挙げて、
私から祈る勇気を奪おうとしている。
しかし、私が祈らなければならない理由は、
まさしく私がひどい罪人で、
神様の恵みと憐れみとを心から必要としている、
ということにあるのだ」。
自分を捨てて、「神様の右手」にしっかりとつかまっていなさい。
そうすれば、魂の敵はひどい誤算に陥ります。
つまり、悪魔が脱穀にかけようとした麦は実はからっぽだった、
ということになります。
こうなる理由は私が次のように言えるからです、
「私は自分の中に何も望まない。私の力は完全に主の中にある」。
このような態度をとるときに、私は
自分自身から、また私に属するあらゆるものから
完全にきれいにされています。
そして私はこう言えます、
「何をあくせくやっているのだ、悪魔よ。
お前は私の中にどんなよきわざがあるかを探っているのか。
そして私の聖さについて神様の御前で私を責めようというのか。
私にはよきわざも聖さもありはしない。
私にあるのは主の力だ。
それに対しては好きなだけ戦いを挑むがよかろう。
私は自分自身の中には罪も聖さも知らない」。
しかし、
もしもあなたがこのような防御のやり方をやめてしまう場合には、
悪魔は罪やよきわざを拠点にしてあなたをつかまえてしまいます。
もしもあなたが悪魔に屈従しその言うことを聞くならば、
悪魔はあなたにやりたい放題のことをします。
そのときあなたは神様を忘れ、見失ってしまいます。
そして「神様の右手」も他のあらゆることもなくしてしまうのです。
あるとき「魂の敵」が私のところへ来てこう言いました、
「マルティン・ルターよ、お前はひどい罪人だ。
お前は地獄に落ちるぞ」。
「ちょっと待て!」、と私は言いました、
「ひとつずつ物事は扱うべきだ。
私はひどい罪人だ。それはその通りだ。
もっともお前には私にそのようなことを言う資格はないわけだが。
私は自分が罪人であることを告白するよ。
しかし、だからなんだというのだ?」。
「そのためにお前は地獄に落ちるのさ!」。
「これは正しくない話だ。
私が罪人であるのは本当だ。
しかし、聖書にはこう書かれている、
「キリスト・イエスは罪人を解放するためにこの世に来られた」。
それゆえ、私も救われるのだ。
さあさっさとどっかに行くがいい!」。
こうして私は魂の敵をやりこめて、
それ自身の剣を利用して私のもとから追い払いました。
魂の敵は、
「ひどい罪人だ」と言うことで私を絶望に陥れる目論見が外れて、
怒り狂いながらも、すごすごと立ち去るほかありませんでした。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
ヘブライ人への手紙 11章3節
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。(ヘブライ人への手紙 11章3節)
人は、聖書の「初めに神様は天と地を造られた」という最初の言葉の意味がわかるようになるまでは実は死んでいるのです。そして人は、たとえ千歳まで生きながらえたとしても、それを完全にわかるようにはならないでしょう。モーセのテキストは明瞭であり、真実を示しています、「神様は『光あれ』と言われました。すると光がありました」。つまり、御言葉は光より前に存在したのです。光は御言葉を通して存在したからです。それと同様に、御言葉は他のすべての被造物より前に存在しました。それら被造物は、モーセが書いているように、御言葉を通して存在したのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヘブライ人への手紙 10章39節、11章1節
しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙 10章39節、11章1節)
私たちは自分の心の中に罪の存在を依然として感じているため、罪が私たちから取り去られていないかのように見えることがよくあります。しかし、私たちは感情や感覚に頼るのを捨てて、単純に御言葉を手にとって、心に書き込み、信頼しなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヘブライ人への手紙 4章2節
彼らと同じく私たちにも福音が伝えられたのです。しかし、聞かれた御言葉は彼らにとっては無益でした。福音を聞いた者たちと(福音は)信仰によってひとつに混じり合わなかったからです。(ヘブライ人への手紙 4章2節)
神様が望んでおられるのは、御言葉が、あたかも波の泡か口の中の唾のように、私たちの舌の上で転がっているだけではなく、私たちが御言葉を、あたかもそれが自然に私たちに生え育ってきたかのように、どこにも消えうせたりしない記念碑として心に深く刻むことです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
「イエス・キリストが私のために死に、私の罪を取り去り、私に天国を用意してくださった」ということを耳にするときに、私は真の福音を聞いています。
宣べ伝えられた御言葉によって生じた音響はまもなく止みますが、もしも御言葉が心に根付き、信仰によって受け入れられているならば、その御言葉は決して消えることがありません。
そして、この真理を無効にするような者は存在しません。
地獄の門もこれに対して何も手出しできません。
私が悪魔に呑み込まれそうになっている場合でさえ、私が御言葉をもっているならば、悪魔は私を解放するしかないのです。
こうして、私は御言葉の中で守られていきます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
コロサイの信徒への手紙 3章16節
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイの信徒への手紙 3章16節)
パウロはここで、教えるという職務にすべてのクリスチャンはかかわりをもっていることを示しています。彼がこう言っているとおりです、「互いに教え合いまた訓戒し合いなさい、すなわち、公の説教職以外の交わりのなかでも、互いに訓戒し合い、また自分自身を戒めなさい。それは、神様の御言葉があらゆるところで、公的にも私的にも、一般的にも個人的にも、活用されていくようになるためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コリントの信徒への手紙二 11章3節
ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。(コリントの信徒への手紙二 11章3節)
それゆえ、神様の御言葉はいつもあなたの心と舌と耳にあるべきなのです。心がたるんでいて御言葉を聴かない場合には、蛇が来て気がつかないうちに私たちを傷つけてしまうからです。それに対して、御言葉は、それが真面目に聴かれ研究され心にしまわれた場合には、実を結ばないままにはならず、心と考えをきれいにしてくれる新鮮な理解や意志や熱心さを常にもたらします。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コリントの信徒への手紙二 6章9~10節
人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(コリントの信徒への手紙二 6章9~10節)
キリストを信じている者は、貧しさのなかにも豊かさを見、辱めのなかにも栄光を見、嘆きのなかにも喜びを見、死のなかにも命を見、これらを待ち望みつつ、神様の御言葉に密着する信仰によって、これらを自分のものとしています。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コリントの信徒への手紙一 15章3~4節
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、(コリントの信徒への手紙一 15章3~4節)
ここで、パウロは、(旧約)聖書を最強の証拠として挙げつつ、聖書なしには正しい教えと信仰を保てないことを明示しています。
大切なのは書かれている御言葉、聖書です。
しかし、敵対者は「大切なのは聖書ではなく、霊だ」と主張し、「霊によって決まるのだ、御言葉は、死んだ文字に過ぎないのだから、命を与えるようなことはできっこない」などと言います。
しかし、私は言います。
もしも啓示された御言葉の中にとどまるつもりがないならば、霊について誇るのを止めなさい。
その霊はよい霊どころか、たちの悪い地獄の悪魔だからです。
聖霊様は、すべての知恵と助言とを御言葉に集めて、聖書の中に啓示してくださいました。
それは、誰も、自分の正しさを弁護できないようにし、自分の救いのために知っておくべきことを聖書以外から探求しないようにするためです。
神様の御子、私たちのために死んで復活してくださった、私たちの救い主イエス・キリスト、についての聖書の教えよりも上位にくるような優れた教えは、ひとつも存在しないのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ローマの信徒への手紙 10章6~8節
しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。(ローマの信徒への手紙 10章6~8節)
神様は、御自分を与える約束をしてくださった、愛の福音の中で、私たちにすべてを与えてくださいます。神様はこう言われたいのです、「私の心と意志は、私の言葉があるところにあります。私の言葉の中で、あなたは私をまるで対面しているかのようにはっきりと見ます」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ローマの信徒への手紙 2章4~5節
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。(ローマの信徒への手紙 2章4~5節)
もしもあなたが神様の御言葉やその戒めをあたかもそれらが冗談であるかのように軽んじるならば、神様の温もりなしで生きるあなたがどんな目に遭うか、想像がつきます。憐れみのない裁きの神様よりも、憐れみ深く平和を賜り祝福してくださる神様の方が、あなたにとってよりよいお方ではありませんか。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 14章26節
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネによる福音書 14章26節)
御言葉に触れるのは、たとえそれがいつも私たちを感動させるわけではないとしても、有益なよいことです。それにより、必要に応じて私たちの心が聞いた御言葉を思い出して正しく理解し、その力と慰めを感じるようになります。それはちょうど、灰に覆われてくすぶっていた火の粉が、そこに空気を送り込んでやるとぱっと燃え上がるようなものです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
確かに私たちは「聖霊様の説教」である神様の御言葉を聴いていますが、
それがいつも人の心を打ち、
信じて受け入れられるというわけではありません。
聖霊様の働きによって
御言葉を自分のものとし、すすんで聴く者でさえ、
かならず御言葉の実を結ぶとは限りません。
御言葉によって
悔い改めたり、慰められたり、支えられたりしないまま、
長い時がたってしまうこともしばしばあることでしょう。
とりわけ、
これといった苦しみや危険もなく、
波風も立たずのんびりと過ぎていく人生の場合には、
そうなってしまうことでしょう。
それはちょうど、
キリストが取り去られる前の使徒たちのようです。
その時には、
「キリストが肉体をともなって弟子たちと共にいてくださる」
という類の慰めしか弟子たちは考えません。
それゆえ、私たちは、
困難や危険に直面した時には、
真の慰めを慕い求めて、
嘆息するようにならなければならないのです。
そうしてはじめて、
聖霊様はその職務を遂行され、力を発揮されます。
すなわち、私たちの心を教えて、
説教が取り上げた御言葉を私たちに思い起こさせてくださるのです。
そういうわけで、
御言葉を聴いてそれを心に蒔くのは有益なよいことです。
御言葉はいつも心に響くわけではありませんが、
聖霊様はその御言葉が必要な「ある時」に、
かつて聴いたことがあるその御言葉を
私たちの心に思い起こさせてくださいます。
それはあたかも、
しばらくの間は消えそうになっていたのに、
それをかき混ぜて空気を送り込んでやるとまた燃え始める炭のようです。
ですから、
御言葉を聴いてすぐに
その実(つまり具体的な効果)を感じないからといって、
御言葉を
無力なものだとか、無駄に説教されたものだとか、
みなさないように、
また、
何か他のものに助けを求めたりしないように注意しなさい。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ヨハネによる福音書 8章51節
はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。(ヨハネによる福音書 8章51節)
御言葉は私たちに「罪や死や悪魔に勝たれたキリスト」を提示します。御言葉を受け入れそれを守る者は、キリストを受け入れるのであり、御言葉を通して永遠の死から解放されます。私たちは「御言葉を守るように」といたずらに命じられているわけではありません。罪が傷つけ、死が攻撃し、地獄が圧迫するとき、私たちは本当の戦争に巻き込ます。そのような時こそ、私たちは御言葉のもとへとしっかり避難し、御言葉から決して離れないことが肝心なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
私たちは死ななければならないし、死を苦しまなければなりません。
しかし、
神様の御言葉の中に留まる者は、死を知る必要がありません。
その人は、夢を見ているかのように、この世から離れていきます。
「私は死ぬ」ではなく、
「私は眠りに就かなければならない」
という言葉こそが似つかわしいように。
敵は私たちを死によっておびやかします。
しかし、
もしも敵にまともな理解力があるのならば、
敵は私たちを命によって脅すことでしょう。
なぜなら、
キリストが復活なさったため、
死は罪と死自身との終わりにすぎないものになっていることを、
私たちは知っており、それを誇りとし。喜んでいるからです。
神様の御前でキリストの御名と御言葉のゆえに死ぬのは、
尊くすばらしいことです。
なぜなら、
私たちはいつかは死ぬ身であり、
結局は罪のゆえに死ななければならないからです。
しかし、
もしも私たちがキリストの御言葉のゆえに死に、
御言葉を自由に告白するならば、
その時、
私たちはあらゆるうちでもっとも光栄な死をむかえることになります。
死に打ち勝つだけではなくて、決して死ななくなる、
という効き目がある薬を調合できる薬屋は、
すばらしい薬屋と言えるでしょう。
人は皆、死なねばなりません。
しかし、
心に神様の御言葉を保ち信じている人は死を見ることがない、
というのは大いなる奇跡です。
神様の御言葉は、
それを信仰により心に堅く納めておくならば、
死を永遠の命に変えるほど強力な薬なのです。
「私の御言葉を保つものは決して死ぬことがない」、
と主が言われているように、死は命のはじまりです。
目の前に命だけがあるとき、死を見ることがどうしてありえましょうか。
その時、夜は昼間のように澄みわたり、明るく輝いています。
始まろうとしている命の光と輝きは、
その時に存在しなくなる死よりもはるかに澄みわたり、
輝きに満ちているからです。
私たちのこの世での命は、「死ぬこと」にほかなりません。
もっとも私たちは、そのことをふだん考えもしないで生きています。
正しい視点からすれば、
私たちの命と死とは互いに遠く隔たっているわけではありません。
ベッドにもぐりこむ時、そこから再び起き上がれるか、私は知りません。
テーブルに座る時、そこから再び立ち上がれるか、私は知りません。
要するに私たちは、起きている時も寝ている時も、
死ぬ時と同様に、生きることに関しては不確かです。
ただ、習慣化していることは、
なじみが薄いもうひとつのこと(死と命)にくらべて、
それほど不思議には見えないだけです。
キリストを通して死は打ち勝たれ、全世界は無に等しくされました。
その結果今残っているのは「絵に描かれた死」だけですが、
それは矛先をへし折られているため、
キリスト信仰者を傷つけることはできません。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
ルカによる福音書 2章15節
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカによる福音書 2章15節より)
人間的な信仰と神的な信仰の真の違いは次の点にあります。人間的な信仰は、特定の人間に頼り、メッセンジャーがほかならぬその人であるという理由でその言葉を信用して敬います。それに対し、神的な信仰は、神様御自身がその中におられる御言葉にしっかりと留まり、それを伝える人が誰であるかには関わりなく、それが真であることを受け入れて敬います。(・・・)こうした信仰は、生きていても死んでいても、地獄でも天国でもくずれません。誰もそれを滅ぼすことはできないのです。そのような信仰は、御言葉に基づいているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エレミヤ書 15章16節
あなたの御言葉が見いだされたときわたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなりわたしの心は喜び躍りました(エレミヤ書 15章16節より)
私は他の人がどれほど霊的に強いのか知りません。「自分は聖くなった」と言い張る人たちもいます。でも私は、たとえどれほど学識があり霊的であったとしても、聖なる人間にはなれません。もしも御言葉について考えたり研究したりしないなら、今だって私は、キリストが私のそばにおられることを体験しないし、少しの熱意も湧かないし、御霊の働きも感じません。それでも、詩編や他の聖書の箇所に深く考えを巡らすと、たちまちのうちに私の心は温かくなり、新しい思いや勇気を得るのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
詩編 111篇10節
主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。(詩編 111篇10節)
学問や芸術の領域では、多くを見聞した者が専門家になれるわけですが、神学や霊的な知恵の領域では、見聞や探究は無益であり、専門家に要求される大切な唯一の基準は「神様の御言葉を聴いて信じる」ことです。何か他の基準をもつ者は道を踏み外します。そのような人は、たとえこの世のあらゆる知恵に精通していたとしても、何もできず正しく説教することもできません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
申命記 8章3節
主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記 8章3節)
お金と持ち物は、体のために役立ちます。ただしそれは、体が十分に健康で、それらを利用できる場合だけです。病気になったり死にかけているときには、お金や持ち物は、その持ち主にとって砂粒のようなもので、何の役にも立ちません。お金や持ち物とはちがい、神様の御言葉は永遠の宝物です。私たちは、御言葉を通して、罪や死や地獄から解放されて、恵みと永遠の命にあずかることになります。
(マルチン・ルター、宝石箱)
民数記 20章10節
そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」(民数記 20章10節)
あれほど強い賛嘆すべき信仰をもっていたにもかかわらず、水を岩から杖で出さなければならなくなったときに、モーセは深刻な疑いにとらわれました。あれほど多くの奇跡を行ったにもかかわらず、私たちの愛するモーセは理性と肉的な思いに圧倒されて、「民の不信仰はこの偉大な奇跡が起きるのを妨げるのではないか」とおそれました。本当なら、モーセは神様の御言葉に信頼すべきだったし、それを民の不信仰よりも高く大きく強いものと見なすべきだったのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)