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ヨハネの手紙一 3章18節
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 (ヨハネの手紙一 3章18節)
私たちは、キリストを信じるようになったときには、
またよい行いについても、次のように学ぶようになります、
「あなたは信仰を通して、キリストを理解し、キリストをいただきました。
キリストを通して、あなたは義なのです。
ですから、あなたは行って、神様や隣人を愛しなさい。
神様に祈り、感謝し、神様を敬い、賛美し、その御名を告白しなさい!
よい行いをし、隣人に仕えなさい!
職務や地位に応じた義務を果たしなさい!」
恵みにより、キリストを通して、人が罪の赦しが受け入れるとき、
これら上に述べたことは、
信仰や真心からあふれでてくる本物のよい行いなのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ペトロの手紙一 1章24~25節
人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。(ペトロの手紙一 1章24~25節(前半))
この世は、偽りの信仰を誇るか、信仰をもたずに聖でありすぎるか、いつもそのどちらかです。もしも私たちが「信仰と神様の恵み」について説教すれば、もう誰もよい行いについて知りたいとは思わなくなってしまいます。もしも私たちが「よい行い」について話せば、もう誰も信仰について気にかけなくなってしまいます。黄金の中道を歩む者はまれです。その道は真のクリスチャンにとってさえ困難です。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヘブライ人への手紙 9章15節
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。(ヘブライ人への手紙 9章15節)
私は、たとえ天国が開かれているのを見たときに、「自分で藁を持ち上げるだけで天国に入れるよ」、と言われたとしても、私はそうしないでしょう。「私は自分の行いによって天国に入れるのだ」、などとおごり高ぶらないようにするためです。そのようであってはなりません!栄光は、私のものではなく、独り子を私のために与え、私の罪を拭い去り、私を救ってくださった神様のものだからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エフェソの信徒への手紙 2章8~10節
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソの信徒への手紙 2章8~10節)
クリスチャンのよい行いには名称も時間も場所もありません。それらは、いつどこで彼らが行ったとしても、よい正しい行いなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ローマの信徒への手紙 6章20、22~23節
あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。(中略)あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマの信徒への手紙 6章20、22~23節)
よい行いによって神様に受け入れていただける人は誰もいません。よい行いは神様のご好意を得て初めて可能になるのです。「私たちは神様に受け入れていただける」という信仰がよい行いを生み出すのであって、行いが信仰をもたらすのではありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ローマの信徒への手紙 6章14節
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(ローマの信徒への手紙 6章14節)
「律法の下から自由になっている」ということは、好きなときに好きなだけどんな悪いことでも行う自由があるとか、よきわざを怠ってよいとかいう意味ではありません。その本当の意味は、恐れや強制や律法の要求のゆえではなく、自由な愛の心から喜んで、よい行いをして悪を避けるということなのです。しかも、あたかも律法が存在しないかのように、それは自然に行われるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 14章12節
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 (ヨハネによる福音書 14章12節)
木が実をつけるのと同じような自然さで、よい行いが信仰からでてきます。
信仰者は、よいことを行うように要求されているわけではなく、
自分からすすんでそれを行うのです。
ちょうど、
信仰者が命令なしに
ひとりでに寝たり、食べたり、飲んだり、服を着たり、
見たり、聞いたり、話したり、歩いたり、立ったりするように。
人がよい行いをし、助け、諭し、ほかの人たちに分け与えなければならない、
というのは本当です。
しかし、それらの行為のゆえに
その人が「クリスチャン」と呼ばれるわけではありません。
なぜなら、
人が白いから白人と呼ばれ、黒いから黒人と呼ばれ、
偉大だから偉人と呼ばれるのと同じように、
私たちもまた、キリストのゆえにクリスチャンと呼ばれるのです。
このキリストが私たちのなかにおられ、
このキリストから私たちはすべてのよいものをいただいています。
もしも私がキリストのゆえにクリスチャンと名づけられているのならば、
自分自身の行いのゆえに私がクリスチャンと呼ばれるのではないことは、
明らかです。
これからわかるのは、
誰も自分の仕事のゆえにクリスチャンになるわけではない
ということです。
キリストが
何かを行われたり、苦しまれたりすることを見たり聞いたりする時、
キリストを、そのわざと苦しみとを全部含めて、
「あなた自身のもの」とみなしなさい。
そうすれば、あなたは、
あたかも自分で一切を行ったかのように、
キリストとみわざすべてに確信を持って頼ることができます。
「賜物」としてのキリストは、
あなたの信仰の栄養であり、あなたをクリスチャンにします。
「模範」としてのキリストは、
あなたを行いへと訓練します。
行いがあなたをクリスチャンにするのではなく、
すでにクリスチャンとされたあなたから行いが出てくるのです。
賜物と模範が互いに遠く隔たっているように、
信仰と行いもまた互いに遠く隔たっています。
信仰には何も「自分のもの」というのがありません。
あるのはキリストのみわざと命だけです。
それとは反対に、
行いには何かあなた自身から出てくるものがあります。
しかし、
それは「あなた自身のもの」であってはなりません。
あなたの行いは「隣人のもの」でなければならないのです。
よい行いや慈善行為は、
外に見せびらかさないで、
なされなければなりません。
よいことは、
密かに、
報酬を一切求めず、
神様の栄光のゆえに、
私たちの隣人の最善を考えて、
行うべきです。
よい行いは、どこからそれがわかるのでしょう。
「それには名前がない」ということからです。
こうして、何の区別も生じず、
どれかの行いを特別扱いすることも起こりません。
あなたは、何かを行い、
また、何かをやらずに済ませて生きています。
あなたは、できうるかぎりの一切のことによって、
隣人に尽くさなければなりません。
祈りや断食などだけが、
キリストがあなたのためにしてくださった行いではありません。
キリストは、あなたのために、
祈りと断食と他のあらゆる行いと苦しみと共に、
すべてを明け渡してくださったのです。
キリストには、
「あなたのもの」ではないものや、
あなたのためになされたのではないことは、
何もありません。
つまり、
あなたが施しをしたり祈ったりすることもまた、
あなたのよい行いではないのです。
そうではなく、
あなたが隣人のために自分をすっかり明け渡して、
隣人が必要としていることについて助けを差し伸べることこそが、
よい行いなのです。
施し、祈り、労苦、断食、助言、慰め、教え、
勧め、叱咤、弁護、衣服や食べ物の提供などを通して、
要するに、
その人のために苦しんで死ぬことによって、
あなたは隣人に仕えるのです。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
ルカによる福音書 10章27節
イエスは答えた。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 (ルカによる福音書 10章27節)
どのように隣人を愛するべきか、
知りたいならば、
どのように自分を愛しているか、
ちゃんと調べてみれば、それがわかります。
キリスト信仰者は、
自己の良心においては、
(憐れむ愛に満ちた)「医者」でなければなりません。
しかし、実際の生活の中では、
兄弟姉妹の重荷を担う
(行動をともなう愛に満ちた)「馬」でなければなりません。
もしも父なる神様を失ってしまうならば、
まもなく、
まわりの人も自分の兄弟姉妹ではなくなってしまうことでしょう。
主キリストの御許に来る者に対して、
主は、
その人の「渇き」を癒すばかりではなく、
その人を「あふれ出る泉」に変えて、
聖霊様をそのさまざまな賜物と共にお与えになります。
それによって主は、
その人自身がキリストを通して助けを受けたのとちょうど同じように、
その人が他の人々にも影響を与えて、
彼らを慰め、強め、彼らに仕える者になるように、
整えたいと望まれています。
イエス様を受け入れたキリスト信仰者が住んでいるところではどこであれ、
すべてのことは愛と理解のなかで行われます。
そこでは、隣人に対して悪いことを望む者はひとりもいません。
神様のものであるのが当然の栄光を神様にお返しして、
神様がすべてを私たちにくださっている「主」である、
と信仰告白する時に、
このことは実際に起きています。
この告白が人々の心をお互いへの愛で満たすので、
他の人々に対して怒ったり、嫉妬したり、傲慢に振舞ったり、
悪いことを望んだりすることはもはやなくなり、
皆が隣人に対してあらゆるよいことを望むようになるのです。
富める者たちの間では富める者に、
貧しい者たちの間では貧しい者になりなさい。
喜ぶ者たちと共に喜び、
泣く者たちと共に泣きなさい。
そうしてついには、
すべての人に対してすべての者になりなさい。
それは、
あなたが、
誰に対しても躓きにはならないで、
それぞれの人と仲直りし、
その人に合わせ、
皆に対して平等に振る舞い、
他の人も従うべき基準などではないことを、
誰もが認めるようになるためです。
これが真の「平和を愛する心」というものです。
この心は、
他の人たちの力や技量に合わせて行動し、
すべてを「よかった」と思いつづけ、
隣人のために苦しみを甘受することをやめません。
たとえそれによって
持ち物や誉れや命さえも失うことになったとしても。
愛は、感謝されないことに気がつきません。
あなたは信仰によってキリストを知るようになりました。
「キリストを通してあなたは義とされている」ことを知ったのです。
ですから、あなたは善い行いをはじめなさい。
神様と隣人を愛し、祈り、感謝し、宣教し、賛美し、
神様の御名を告白しなさい。
善いことを行い、隣人に仕え、
あなたに与えられた職務を忠実に果たしなさい。
これらが真の善い行いです。
恵みによりキリストを通して自分の罪が赦された、
とわかった時に
信仰と心の喜びからあふれでてくる善きわざなのです。
キリスト信仰者の生活がどのようなものでなければならないか、
真理に基づき次のように簡潔に述べることができます。
キリスト信仰者は、
神様の御前で「善い心」をもち、
隣人に対して善意をもって接しなければなりません。
すべてはそこに含まれています。
「きれいな心」は、奉仕する心であり、
皆によいことなら何でも与えていくような心です。
神様は誰をも区別なさいません。
私が隣人を愛することを、神様は望んでおられます。
そしてそれは、
私の隣人が、友か敵か、義人か悪人か、
にはかかわりがありません。
たとえ隣人が私を傷つける悪人であったとしても、
その人が「私の隣人」であることにはかわりがありません。
言うまでもなく、
義人は多くの人から愛されて、
その人の周りには自然と人が集まってくるものです。
それとは反対に、
悪人は嫌われて、
誰もその人に寄り付こうとはしないものです。
しかし、これは、まだ「肉と血」[1]であって、真の愛ではありません。
この世とは異なり、
キリスト信仰者の愛は、人に左右されるものであってはなりません。
逆に、キリスト信仰者は次のように言わなければなりません、
「私はあなたを愛しています。
しかしそれは、
あなたが義人だからでも、あるいは悪人だからでもありません。
私の愛は、
自分自身と同じように隣人を愛するように、
と私に教えてくれた御言葉に基づいているのです」。
[1] 人間的な弱さに基づく行為のこと(訳者註)。
「憐れみ」とは何か、誰でもよく知っています。
それは、
隣人に不幸が訪れた時、
あたかもそれが自分の身の上に起こったかのように受け止めて、
苦しみを共にし、できうるかぎりその人を助けようとする心のことです。
ですから、隣人の窮乏と危機にのみ目を留めるようになさい。
そうすれば、まもなく、憐れみとは何であるか、わかってきます。
もしもあなたが神様に仕えたいと思い、
神様が喜んでくださる働きをしたいのなら、
ファリサイ派の人々がやるように自分自身の罪から逃げ出したりはしないで、
隣人の中に留まり、助言や、警告や、懲らしめや、慰めを彼らに与え、
また、彼らに対して忍耐をもち、教えていくべきなのです。
お金や物をもっていて、
妻や夫や子どもたちがいて、
家や屋敷がある、
ということは、
もしもそれらにあなたが振り回されず、
逆に、それらをきちんと管理していく場合には、
罪ではありません。
神様の御心は、
私たちが貪欲や心配にさいなまれながら
金銭や持ち物のとりこになることではなくて、
心配事を神様におまかせして、働くことです。
仕える者は召使いであって、
持ち物は自分のものではありません。
その人は
持ち物を自分の思い通りに使ってはいけないし、
その持ち物によって他の人に仕えてもいけないのです。
しかし、
もしも人が持ち物の所有者であるならば、
その持ち物は所有者であるその人に仕えます。
その人は、服のない人などを見るとき、
自分の持っているお金にこう言います、
「あそこに貧しい裸の男の人がいる。
あそこには病気の人がぐったりして寝ている。
お金たちよ、出てきなさい。
あなたたちはこれからあの人たちに仕えなければなりませんよ」。
自分の持ち物をこのように扱える人は、
その持ち物の(「奴隷」ではなく)「主人」です。
そして実際に、
真に純粋なキリスト信仰者はこのように行うものです。
信仰は、キリストを、
キリストのすべての宝物とともに、
あなた自身のものとしてもたらし、与えてくれます。
愛は、あなたを、
あなた自身のすべての持ち物とともに、
あなたの隣人に与えます。
キリスト信仰者の生活は、
信仰と愛というこの二つの中に、
きよく、全きものとして、包み込まれています。
それから、
この信仰と愛のゆえに、苦難と迫害がやってきます。
そして、そこから、
忍耐の中で希望が培われていきます。
キリスト信仰者が罪を憎む時には、
悪行とそれを行う人間とを区別します。
キリスト信仰者は悪行をなくそうと努力しますが、
それと同時に、
それを行った人間が失われてしまわないように努めます。
それゆえ、
キリスト信仰者は、相手が誰であれ、
人から逃げ出したり、人を避けたり、見捨てたり、軽んじたりはしません。
それとは逆に、
人を守り、人と喜んで付き合い、
人が悪行から解放されるように助け、
人を叱り、人に教え、人のために祈り、
人に対して忍耐をもつように、振舞います。
キリスト信仰者自身も、
他の人たちと同じような弱さの中にいるので、
前述した「人」に関することは、
すべてキリスト信仰者にもそのままあてはまります。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
マタイによる福音書 21章5節
見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。(マタイによる福音書 21章5節より)
この方は(あなたのところに)来られます。それは確実です。あなたがこの方のところに行ってお迎えにあがるわけではありません。この方はあなたにとって尊すぎ、遠すぎるからです。お金をどんなに積んでも、いくら仕事をしても、いくら苦労しても、この方には近づくことができません。それは、あなたが自分の功績や功能によってこの方を出迎えた、などと自慢できないようにするためなのです。友よ、どのようなことをやり遂げたか、とか、どれほど有能であるか、とか、そのようなことは、この方のみもとに行くためには何の役にも立ちません。あなたにはまったく功績もなければ功能もないのです。しかし、この方は恵みと憐れみに満ちておられます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マタイによる福音書 12章33節
木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。(マタイによる福音書 12章33節)
よい行いが人をクリスチャンにするのではなくて、クリスチャンが良い行いをするのです。実は木から生じて大きくなり、その木がどのようなものであるか、示します。しかし、「何かを示す」ことと「その何かである」ことは全く別のことなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マタイによる福音書 5章16節
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書 5章16節)
「よい行い」とキリストが呼んでおられるのは、私たちがキリストの教えを熱心に実践し、告白し、またそのゆえに苦しむことです。このことからわかるのは、主がここで語っておられるのは、私たち皆が愛をもって互いに行うべき普通のわざについてではなく、なによりもまず、正しく教え信仰について助言しその成長を支え強めることによって実践される、正しいキリスト教的な行いについてです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 35章4節
見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。(イザヤ書 35章4節より)
神様の恵みを誰も疑ってはなりません。全世界とすべての罪に対抗してでも神様の助けに信頼するべきです。しかし、自分自身はまったくだめだとみなすべきです。「ほんの小さなよいことぐらいなら行える」などと思ってはなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)