タグは ‘罪の赦し’

ヨハネの手紙一 5章6節

この方(イエス・キリスト)は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(ヨハネの手紙一 5章6節)

信仰において洗礼を受け入れる者は、キリストの血によって自分自身の罪から本当に清められます。私たちは罪の赦しを自分の行いによって手に入れるのではなく、神様の御子の死とその流された血によっていただくのです。そして、この罪の赦しを、神様は洗礼に結び付けてくださいました。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 9章15節

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。(ヘブライ人への手紙 9章15節)

私は、たとえ天国が開かれているのを見たときに、「自分で藁を持ち上げるだけで天国に入れるよ」、と言われたとしても、私はそうしないでしょう。「私は自分の行いによって天国に入れるのだ」、などとおごり高ぶらないようにするためです。そのようであってはなりません!栄光は、私のものではなく、独り子を私のために与え、私の罪を拭い去り、私を救ってくださった神様のものだからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

エフェソの信徒への手紙 1章7節

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。(エフェソの信徒への手紙 1章7節より)

これらの御言葉は、罪の赦しが神様の御前で完全に私たちの義であることを証しています。私たちは、私たちと争い私たちに私たち自身の罪とよい行いとを示す理性よりも遥か上方へと登り、自分の罪もよい行いも気に留めず、他の一切を無視してでもこれらの御言葉を一切の基盤とすることを学んでいかなければなりません。私たちは罪に対してもよい行いに対しても、恵みすなわち赦しをかかげて、あらゆる人間的な義や聖を取り除きます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 3章27節

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章27節)

私たちの服は、アダムの皮膚、死の衣装、罪の服、です。言い換えれば、私たちは皆、罪の支配下で屈従を余儀なくされています。私たちは恐るべきほど盲目で無知であり、神様を軽んじ神様に怒っています。その上、私たちは悪い欲望や汚れや貪欲などに満ちています。この服、すなわち、私たちの罪の性質を、私たちはすでに受胎のときにアダムから受けたのです。私たちはそれをすべての行いと共に脱ぎ去らなければなりません。しかし、それは服を代えることによっては成功しません。どんな律法や行いによってもだめです。それが実現するのは、パウロが「キリストにあって洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたのです」と言っている通り、洗礼における新しい誕生と新しい変化によってです。
 キリストは、律法でも、律法を与える者でも、行いでもありません。キリストは、天のお父様が私たちを義とし活きる者とし贖う方として私たちに贈ってくださった、言葉では表せない神的な贈り物です。「キリストを着る」ことは律法や行いに身を包むことではなく、言いようもなく素晴らしい贈り物、すなわち、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、つまりキリスト御自身を着ることなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 4章18節

彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ(ローマの信徒への手紙 4章18節)

私たちは「キリストの肉(身体)」という
至聖所の垂れ幕の守りの中に生きています。
この垂れ幕は私たちにとって、
昼間は雲の柱、夜は火の柱になっているので、
神様は私たちの罪をごらんにはなりません(「出エジプト記」40章)。
たとえ自分の罪がつい目に付いてしまい良心がおびえたとしても、
いつでも私たちの仲介者、仲裁者なるキリストの守りの中へ急いでいけば、
私たちは救われます。
このキリストを通して、私たちは完全無欠なのです。
キリストにはすべてがあるように、
私たちにもキリストにおいてすべてがあるからです。
このように信じるとき、神様は、
私たちの中にまだ残っている罪の廃物に対して目をつぶり、
あたかもそれが存在しないかのように覆い隠してくださいます。
神様は言われます、
「あなたは私の御子を信じているので、
あなたの中にまだ残っている罪は赦されています。
そして、最終的には死を通してそれから完全に解放されます」。
しかし、あなたはこう言うでしょう、
「自分の中に罪がありそれを感じている私のような者が、
どうして義であり聖でありうるでしょうか?」。
あなたが自分の罪を知り、それを感じているのはよいことです。
それについて神様に感謝し、絶望に陥らないようにしなさい。
健康になる第一歩は、病人が自分の病気を知り、それを告白することです。
しかし、どうすれば罪から解放されるのでしょうか?
お医者様キリストのみもとに急ぎなさい。
キリストは打ち砕かれた心を癒し、罪人を救ってくださいます
(詩編147 編3節)。
「キリストは罪人に対して怒っているぞ」
などと言ってくる理性に惑わされてはいけません。
理性を殺して、キリストを信じなさい。
こうすれば、あなたは助けを受け、義とされ、聖なのです。
なぜなら、あなたはキリストに、
全能でいつくしみ深く真実に満ちたお方としての栄光を帰しているからです。
「神様は義であられる」とあなたは告白し、神様を賛美します。
言い換えれば、
あなたは神様に神性およびすべてのものが属することをを告白するのです。
あなたの中にまだ残っている罪は、あなたに対して罪とは認められません。
それは、あなたが信じているキリストのゆえに赦されます。
キリストは完全に義なるお方です。
そして、その義はあなたのものであり、あなたの義はキリストのものです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

使徒言行録 13章38~39節

だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。(使徒言行録 13章38~39節)

繰り返しますが、福音は恵みと罪の赦しを神様が保証してくださっていること以外のなにものでもありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 20章23節

だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。(ヨハネによる福音書 20章23節より)

私たちは告解(ラテン語でabsolutio)について、ローマ教皇の神学者たちのようには教えません。彼らは、「告解のためには罪を列挙しなければならず、またそれによって罪が赦され告解を受けるに値する者になる」と教えます。彼らはこう言います、「あなたの悔悛と告解のゆえに、私はあなたがその罪から解放されたことを宣言します」。これはまちがいです。福音の慰めをよりよく聴き取るようにし、そうして罪の赦しを強く信じるように、告解を正しく用いなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 20章21(後半)、23節

父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。(ヨハネによる福音書 20章21(後半)、23節)

私共説教者はキリストの職務にあって、「罪を叱責し、罪を赦す」ことを通して主なる神様をお助けしています。罪を叱責しない説教者は、地獄を開き天国を閉じています。同様なことは、罪を赦さない説教者も行っているのです。それゆえ、「罪を叱責し、罪を赦す」というこの両面を説教しなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 19章34節

しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネによる福音書 19章34節)

主イエス・キリストのわきから流れている血こそは、私たちをあがないだすために必要な、私たちの罪を完全に帳消しにする「値段」です。故なく受けた苦しみと死によって、また十字架で流された聖なる尊い血によって、愛する主イエス・キリストは、私たちのすべての罪の負債を支払ってくださり、自分自身の罪のゆえに永遠の死と滅びに支配されていた私たちをあがないだしてくださいました。このキリストの血は神様のみもとで、私たちを守るために休みなくこう叫び続けています、「憐れんでください!憐れんでください!赦してください!赦してください!お父様!お父様!」。このようにしてキリストの血は、私たちのために、神様のあわれみと罪の赦し、また義と救いをそなえてくださったのです。父なる神様は今、神様と私たちの仲介をしてくださるこの愛する御子の叫びと私たちのためのとりなしの祈りとを聴いてくださり、弱々しい罪人である私たちをあわれんでくださいます。私たちはすみずみまで罪にまみれているにもかかわらず、神様は私たちの中にひとつの罪も見出しません。神様は、愛する御子イエス・キリストの比類なき尊い血だけを見ておられるからです。そして、この血によって私たちは清くすすがれているのです。この血こそが、黄金の恵みの衣装です。この血によって、私たちはおおわれています。この血に包まれて、私たちは神様の御前に進み出ます。それゆえ、神様は私たちを、あたかも義と聖と無垢に満ちた愛する御子であるかのようにみなしてくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 1章29節

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネによる福音書 1章29節)

この世の初めから終わりまでのすべての罪は、神の小羊の上に投げかけられました。あなたもこの世に生きており、この世の一部なので、このことはあなたにも関係があります。「私たちはキリストにあって、神の小羊にあって、罪の赦し、神様の御好意と恵み、それから永遠の命をいただいている」と、もしも私たちが信じているならば、罪は私たちに危害を加えることができません。神様は私たちを愛し、憐れんでくださいます。そして死や地獄は私たちを縛り付けることができません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 24章45~47節

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。(ルカによる福音書 24章45~47節)

キリストは教会に「罪を赦す賜物」をお与えになり、「罪の赦しの王国」を築かれました。罪人が指導や叱責を受け入れる場合には、その人は罪の赦しを乞い求める度毎に罪から解放されます。そしてこれは教会の本質をよくあらわしています。なぜなら、罪の赦しは教会に委ねられているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 15章26~27節

イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタイによる福音書 15章26~27節)

御言葉によって「人は皆罪人である」と告げてくださった神様が正しいのならば、神様がすべての罪人に与えてくださる権利、すなわち、罪の赦しをいただけるという権利をあなたも用いてよいのです。そのときにあなたは、子犬とは違って、食卓から落ちてくるパンくずだけを食べるのではありません。希望通りにあなたは神様の子供なのであり、神様はあなたのものなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 11章28節

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書 11章28節)

イエス様は重荷を取り去ってくださいます。すなわち、罪を赦してくださいます。イエス様は困っている人の苦しみを和らげ、喜びと安全を与えてくださいます。良心の呵責に悩まされている人は、自分が罪赦されて天国を継ぐ者とされていることを知るとき、真の意味で大いに元気付けられます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 11章5節

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。(マタイによる福音書 11章5節)

「福音」とは、キリストについて宣べ伝えることです。この福音は罪人にこう言います、「私の子よ、安心して喜びなさい。恐れてはいけません。キリストは、貧しい惨めな悲しみの心の持ち主たちにところに、恵みを伝えて与えるために来られたのですから。この方はあなたのために、神様にふさわしい永遠の清さを捨てて、あなたの罪を洗い落とし、あなたを神様と仲直りさせ、御自分を犠牲にしてあなたに罪の赦しと永遠の命を確保し、贈り届けてくださったのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 6章14節

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。(マタイによる福音書 6章14節)

キリストはここで罪の赦しを、
私たちも罪の赦しを与えることに結び付けておられます。
それは、
クリスチャンが互いに愛し合い、
信仰と主からいただいた罪の赦しに心を留めて、
休みなく隣人に罪の赦しを与えていくことを義務付けるためです。
こうして私たちが隣人に対して意地の悪いことをせず、
愛の中で生きていくように、
また、たとえ私たちが何か悪いことをされても
(この世ではそういうことがよくありますが)、
いつも相手の罪を赦す習慣を身につけるためです。
しかし、これとは逆の態度をとる場合、
私たちには罪の赦しが与えられないことを、
知っておくべきです。
こうして堅く強い紐が作られ、
それによって私たちはひとつにされるのです。
それは、
私たちが互いの意見の違いのせいで紐をだいなしにはせず、
愛をもって互いを耐え忍び、
一致した心を保つようになるためです。
これが実現するとき、
クリスチャンは正しく信じ愛する完全な存在になります。
クリスチャンの中にある他の欠点は拭い去られ、
完全にその罪が赦されます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

マタイによる福音書 6章12節

わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイによる福音書 6章12節)

神様が罪について話されるとき、それは大きなひどい罪についてです。罪の赦しは遊びごとではなく、全くの事実です。もしもあなたがこのことを本当に理解しているなら、そこには二つの面があることに気がつくでしょう。あなたがどれほど義しい人であったとしても、罪はあなたからあなたの聖さをすっかり奪い取ってしまいます。一方、罪の赦しは罪と怒りをすっかり覆い隠してくれます。このように、あなたの罪があなたを地獄へと追いやることも、あなたの義しさがあなたを天国へと引き上げることもありません。このことを正しく理解している人こそ真に専門家の名にふさわしいのです。しかし、生涯にわたってこのことを学び続けるのを恥ずかしく思ったりしないために、私たちには皆、謙虚になる理由があるでしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨエル書 3章5節

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル書 3章5節より)

まずなによりもこの「皆ひとりひとり」という無制限の言葉に注目しましょう!それは誰をも救いの外へ閉め出したりはしません。この救いを神様は、御自分に助けを求めて叫ぶ者に御自分の自由意志によりただで与えることを約束しています。私たちはこのことを知らなければなりません。人間の心なるものは、神様の御言葉に信頼しない間は、「神様は誰を憐れんでくださるか」という問題について危険な考えを思いつくものだからです。この「ヨエル書」にある約束は神様の憐れみを例外なくすべての人に提供しています。また、神様の御言葉に仕える者には皆ひとりひとりに罪の赦しを宣言するように、命令を受けています。
(マルチン・ルター、宝石箱)


この御言葉に、私たちの救いのすべてはかかっています。
そのように素直に理解するべきです。
「救われる」と預言者ヨエルは言います。
それは、人が罪や死や地獄からあがないだされることです。
人はこうして、
この世での惨めな人生を通って、永遠の命へと入って行きます。
それはひとえに聖霊様のおかげです。
預言者ヨエルによれば、
聖霊様はあらゆる肉の上に注ぎだされており、
人が主の御名を呼ぶようにと働きかけてくださいます。
これはパウロも等しく強調したことです。
すなわち、
人は、律法の行いなしに、信仰を通してのみ義とされるのです。
なぜなら、
「主の名を呼び求めること」は「信じること」と同じだからです
(ローマの信徒への手紙 10章)。
まず第一に、
福音を宣教する人々を派遣しなければなりません。
この派遣によって福音が他の人々に聞かれるようになります。
福音を聴くことによって、信仰が与えられます。
信仰は、救いを求めて主の御名を呼ぶ心を起こします。
そして、この呼び声は救いをもたらします。
キリストの王国は、
神様の御言葉に基づく信仰の王国であり、
そこで、私たちは、
自分の力によってではなく、
私たちがまだ敵であったときから
私たちを愛してくださっている
神様の「自由な恵み」によって、
救われるのです。
また、神様は、
私たちの心に聖霊様を送って、
私たちが救いを求めて御名を呼ぶように
働きかけてくださいます。
まさにそれゆえに、
私たちは救われるようになるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


私たちはこの世での人生の間、
主を面と向かって見ることができません。
それゆえに、
主の「御名」と預言者は言っているのです。
私たちはこの世では「信仰の王国」の中で活きています。
神様の御名とは神様の御言葉のことです。
それを私たちは聴くのであり、
そこに私たちの富があります。
死ぬ時までは、
これを超えるものを何も私たちはもっていません。
しかし、死んだ後で、
私たちは主を面と向かって見ることになります。
「皆」という言葉に特に注目しましょう。
神様は、御自分を呼び求める者に対して、
自由な御意志により無償で約束してくださった救いから、
誰一人除外なさらないのです。
このことを知っておくのは、
御言葉の根拠なしに、
御言葉に反して吹聴されている
「恵みに関する選び」という、
あの危険な考え[1]を斥けるためにも大切です。
神様は私たちに御言葉を送ってくださるので、
誰あろう私たちこそが
恵みによって選ばれているのです。
私たちは、
神様がはっきりくださっている約束に信頼し、
救いを求めて神様の御名を呼び、
自分は救われる、と確信をもつべきです。
「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
あなたの御名の栄光を輝かせてください。
御名のために、わたしたちを救い出し
わたしたちの罪をお赦しください。」(詩編 79編9節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

[1] 人間的な基準によって、ある人は神様の恵みにあずかっているが、ある人はあずかっていない、と判別する考え方をさしているものと思われます(訳者注)。

イザヤ書 33章20、24節

私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。(中略)そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。(イザヤ書 33章20、24節より)

神様は、人間の罪をこの生において取り去りお赦しになるところに、御自分の栄光と恵みを示されます。これが地上における「恵みの王国」です。しかし、完全な救いに満ちている「栄光の王国」においては、罪もその取り巻きである悪魔や死や地獄も、(人に)もはや苦しみをもたらすことはありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者