旧約聖書

詩編 104篇24、31節

主よ、あなたの御業はいかに多様でしょうか!
あなたはそれらすべてを知恵によって造られました。
地はあなたの被造物で満ちています。(中略)
主の栄光が永遠にありますように。
主が御自分の作品をお喜びになりますように!(詩編 104篇24、31節)

あらゆる被造物、その中でも最小のもの、
さらにはその体の一部分にさえ、
神様の全能と偉大な奇跡があらわれており、
しかも誰であれそれを目にすることができます。

人は、
たとえどれほど権力があろうとも、
いかに賢く、また敬虔であっても、
イチジクからイチジクの木を、
またサクランボの実から桜の木を造ることができましょうか。
また、
神様がどのようにしてすべてを造り、育て、養っておいでか、
知ることができましょうか。

神様のことを知っている人は
神様が造られた世界のことも知っており、
理解し、また愛しています。
被造物の中に神様の足跡が残されているからです。
(マルチン・ルターの「活きるために」)

詩編 103編11節

天が地を超えて高いように慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。(詩編 103編11節)

恵みは力に満ちており、私たちの中にあるあらゆる罪や怒りや悪よりも強い王国を形成しています。知の崇拝者や偽善者はいまだかつてこの御言葉を理解したことがありません。彼らの心の状態は私が知を崇拝していたときの状態と同じだろうと思います。彼らは恵みにあずかっていますが、罪を行えば恵みも失ってしまい、それを再び自分の行いによって獲得しなければならないのです。しかしこれでは、行いの上方にある恵みの王国ではなく、恵みの上方にある行いの王国になってしまいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 103編2~3節

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し(詩編 103編2~3節)

もしも私たちが罪を忘れてしまうならば、恵みも取るに足りないものとみなしていることになります。もしも、私たちが自分たちの犯罪を忘れてしまうならば、神様に感謝することもなくなり、自分の罪深さを悲しむ気持ちも消えて、もっと悪い罪や犯罪を平気で行うことに慣れてしまいます。それゆえ、私たちは今までに犯してきた罪のことを考えて、神様に、「私はこのように生き、このように行ってきました。私の罪をすべて忘れてくださった神様を賛美します」、と言わなければなりません。このようにして、恵みはすばらしいものに変わり、あなた自身は好ましい信仰生活に留まることができます。要するに、もしもあなた自身が自分の罪を思い起こしてそれを心に留めるならば、神様も御自分の恵みと憐れみとを御心に留めてくださるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

詩編 102編14節

どうか、立ち上がって/シオンを憐れんでください。(詩編 102編14節前半)

私はあなたのみもとに参ることができません。それゆえ、私の神様、立ち上がり、私のところに来て、私をみもとにお連れください。「立ち上がる」とは「神様が人となられた」という、最も麗しく恵み深い事実を意味しています。このようにして神様は私たちをみもとにもちあげるために私たちのところに来られました。そして、御自分の民シオンを憐れんでくださいました。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 62編9節

民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。(詩編 62編9節)

あなたたちに何かが欠けているときには、心を神様にすっかりお渡しし、心配を隠さず自由に語りなさい。ちょうど一番の親友に話すように、心を開いて神様にはっきりとすべてを語りなさい。神様は喜んで聴き、諭し、助けてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)


あなたたちに何か欠けているときにも、どうするべきか、適切な助言が用意されています。
「その御前にあなたたちの心を注ぎだしなさい」、というのがそれです。
何が必要か隠さずにはっきり言いなさい。
何についてであれ、ちょうど心を親友に打ち明けるように、すべて神様にお話ししなさい。
神様は喜んで祈りを聞いてくださるし、ぜひ助けてアドヴァイスを与えたいと望んでおられます。
「自分たちの願いは大きすぎる」などと考えて、神様を恐れたりしないようにしなさい。
勇気を持って!
欠けているものや必要なものが山ほどあっても、全部、打ち明けなさい!
神様から願うことが多ければ多いほど、それだけ神様は喜んであなたの言うことに耳を傾けてくださるのです。
素直にあなたの心を注ぎだし、何も隠さないようにしなさい。
神様はあなたのことを一部分だけ聞きたいと思っているのではなく、御自分の恵みをあなたの上に満ちあふれさせたいと願っておられるからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

詩編 57編2節

憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。(詩編 57編2節)

私たちはキリストに、キリストなる岩に、キリストなる避けどころにとどまらなければなりません。さもないと、すべては手遅れになってしまいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 50篇23節

感謝をささげる者は私をあがめています。(正しい)道にとどまる者に私は神様の救いを見せましょう。(詩編 50篇23節)

「感謝のささげものは私(神様)の栄光のためにささげられます。そうすることで人々は私に仕えています。人々が私に感謝をささげる理由は、私が幸せに満ちた救いがどのようなものか、彼らにはっきり示しているからです」。このようなささげもの(感謝)は、ほかのどんなささげものよりも神様を喜ばせます。不信仰な偽善者は神様に、あたかも神様がそれを必要としてでもいるかのように、自分の奉仕を押し付けようとします。しかし、神様は私たちに「与えたい」と望んでおられまた「実際に与えてくださる」お方です。なぜなら、私たちこそ、神様のくださるよきものを必要としているからです。神様が望んでおられるのは、私たちが感謝の心をもち、御自身を私たちの神様として受け入れることだけです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 50編16節~17節

神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。(詩編 50編16節~17節)

父と御子と聖霊の御名や御言葉を誇ったり、
同じ信仰を告白しているかのように見せかける人々がいます。
実際のところ彼らはそれぞれお互いにまったく異なっています。
このような人々の間で、私たちは生きていくほかありません。
しかし、この現実につまずかないようにしましょう。
彼らは皆、同じ(クリスチャンという)名前をもっていますが、
ある人たちは偽りのクリスチャンであり、
またある人たちは真のクリスチャンなのです。
しかし、この二つのグループを識別するために、
キリストの信仰の福音の教えが余分な付加なく純粋に実践されているのはどこか、
また、この教えがその結実としてよい行いを生み出しているのはどこか、
さらに、それとは正反対に、
福音と信仰が口先だけで告白されているのはどこか、
私たちはよく目を凝らさなければなりません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

詩編 50編15節

それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。(詩編 50編15節)

起きて、ひざまずきなさい。まなざしと手を天に向けて、詩編か主の祈りを唱えなさい。そして自分の苦しみを神様へ打ち明けなさい。嘆きなさい。祈りなさい。叫びなさい。神様は、あなたが苦しみを抱いたまま、それを何倍にも大きくして自分自身を痛めつけるのではなく、その苦しみを神様にすべて委ねることを望んでおられるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 32編8節

わたしはあなたを目覚めさせ行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。(詩編 32編8節)

主はこう言われています。あなたは私に教えようとしても、自分自身に教え込もうとしてもいけません。あなたは私に自分を委ねなさい。私はあなたの師匠であり、私の御心に適うようにあなたが歩めるような道であなたを導いていきます。自分の考えどおりに進まないとき、すべてがだめになったとあなたには見えることでしょう。そういうときには、あなたの考えはあなた自身を傷つけ私を妨げます。あなたの思い通りにうまくいくことなどは何もなく、あなたの理解を超えてすべてことは運ぶのです。自分の理解力のなかでへりくだりなさい。そうすれば私の理解力をあなたは得ます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 32編1節

いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。(詩編 32編1節)

まったく罪がなかったり、何の罪も感じなかったりする人のことを、
私たちは真のクリスチャンとは呼びません。
そう呼ばれるにふさわしいのは、
キリストへの信仰のゆえに神様から罪を赦していただいた人です。
本当に苦しいときに、この教えは良心に安らかな慰めを与えてくれます。
キリストのゆえに人は罪赦され、義を「自分のもの」にしてよいと認められます。
クリスチャンは、とりわけ苦しいときには、
律法や罪とかかわりをもってはいけません。
このことを、私たちは無駄に繰り返し教えてきたわけではないのです。
クリスチャンであるならば、その人は律法と罪の上方にいます。
その人の心の中に、ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているようにして、
律法の主なるキリストがとどまっておられるからです。
律法が責め立て、罪がおびえさせるときに、その人はキリストを見つめます。
その人がキリストを信仰によって理解しているなら、
律法と罪と死と悪魔に勝利し支配なさるお方がその人と共にいてくださるので、
それらがクリスチャンに危害を加えることはありえません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

詩編 30編6~8節

泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。平穏なときには、申しました「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。主よ、あなたが御旨によって砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されるとわたしはたちまち恐怖に陥りました。(詩編 30編6~8節より)

この詩編には、安らかな良心がどのようなものであるかが美しく描かれています。ダヴィデは全世界を水滴ほどのものと見なし、その怒り狂った嵐のような力を恐れません。主は彼と共におられ、彼の岩を強めてくださいます。しかし、彼が躓き、主が彼から御顔を隠した時には、彼は慌てふためき、その勇気と岩とを失ってしまいました。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 23編5節

わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。(詩編 23編5節)

主は驚くようなやり方で、私を真にかけがえのない兵士にし、敵と戦えるように武装してくださいます。肉体的にも霊的にも、主は私を養い元気付けてくださいます。主は私を正しい道に留まらせてくださいます。主は私に鞭と杖を与えてくださいます。しかし、それらを私は手ではなく口で運ぶのです。それらによって私は悲しんでいる者皆を慰めます。そして、私は悪魔をその使徒たち共々追い払います。たとえ彼らがどれほど狡猾で凶暴であったとしてもです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 22編23、26~27節

わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。(・・・)それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。(詩編 22編23、26~27節)

私たちは、この「主と兄弟である」という関係を修復できなくなるほどに、深く罪に沈みこんだり、悪い罪過を犯してしまうことはありえません。なぜなら、この兄弟性は永遠で終わりがなく、むなしくなることもないからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 18編4節

ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。(詩編 18編4節)

危険に直面したときに神様への賛美がどれほど強力な武器であるか、私たちは信じることができないほどです。神様を賛美し始めると、たちまちのうちに悪は弱まり、あなたは勇気が湧いてきて神様に信頼して助けを叫び求めることができます。神様に本当に仕えている人たちは、いつもこのようにして悪に対抗するための慰めと助けを探し求めてきたのです。まずはじめに賛美し、それから助けを求めて叫びましょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

箴言 16章2~3節、詩編 37篇4~5節

人間の道は自分の目に清く見えるが主はその精神を調べられる。あなたの業を主にゆだねれば計らうことは固く立つ。(箴言 16章2~3節)

主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい(詩編 37篇4~5節)

私は多くの計画を自分の手の中に収めておきたいと思ったものですが、そういうときにはいつも計画は失敗したものです。しかし、神様の御手に委ねたことがらは決して失敗に終わったことがありませんでした!
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 2章12節

子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。(詩編 2章12節より)

キリストが世の王様であり、すべてはこの方の足下におかれていることは、すでに決定されています。良い日々や平和を楽しみたいと望む者は、御子に口付けし、御子に聴き従わなければなりません。さもなければ、陶器のように打ち砕かれてしまうでしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 1篇6節

神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。(詩編 1篇6節)

いたるところで人々は義なる人の道を捨ててそれをさげすみ、「神様もその道を知らないだろう」などとうそぶいています。それは、信仰と知識とが「十字架の知恵」だからです。神様おひとりが義なる人々の道を知っておられます。その道は義なる人々からも隠されています。神様の右の御手が彼らを奇跡のように導いていきます。それは「感情や理性の道」ではなく「信仰の道」です。この道は暗闇の只中を貫通し、そこで私たちは見えないものを見ることになるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

サムエル記下 23章1~2節

以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者/ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌。主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。(サムエル記下 23章1~2節)

「詩編」はあなたを分裂を引き起こす者たちから引き離し、「聖徒の共同体」へと結び付けます。「詩編」はあなたを、喜びや悲しみ、希望や恐れのなかで、すべての聖徒たちが考え話したのと同じように話し考えるように教えてくれるからです。それゆえ、単純明瞭に描かれている「キリスト教会」を見たいのならば、「詩編」を研究しなさい!「詩編」のなかにあなたは、クリスチャンの集まりとは如何なるものか、を映してくれる「美しく輝く鏡」をもつことになります。「詩編」のなかにあなたは、自分と神様とあらゆる被造物とを見出します。
(マルチン・ルター、宝石箱)

サムエル記上 2章7節

主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。(サムエル記上 2章7節)

なんと喜ばしい御言葉でしょうか!真のクリスチャンは皆、心の底から歌いなさい。愛する神様、あなたはなんて不思議なお方なのでしょうか!あなたは私たちを不思議なやり方で支配しておられます。あなたは私たちを、低めるときに高め、罪人にするときに義とし、地獄に追いやるときに天国に連れて行き、敗北の中に勝利を与え、死の中に命を与え、貧しくするときに富ませ、僕として召すときに主人に格上げしてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者