新約聖書

ヤコブの手紙 4章5~8節前半

それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。(ヤコブの手紙 4章5~8節前半)

人間の理性にきれいに調和し喜びを与えるようなやり方を利用して、常に悪魔は忍び寄ってきます。それで、それを信じる者が沢山いるのです。悪魔と戦うためには、御言葉にしっかりと結びついた高度に霊的な理解力が必要です。さもなければ、悪魔の手口を理解することも、打ち破ることもできません。
(マルチン・ルター、宝石箱)


だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。(ヤコブの手紙 4章7節)

どうしてあなたは
不用心に上機嫌で生きていられるのでしょう。
あなたを個人的に攻撃してくる
「この世の暴君」がいるではありませんか。
しかもこの敵は
全力であなたを倒すために武装しているのです。
 
私たちは普段
あまりにも物事を軽く考えて不用心に生活しています。
あたかも悪魔が弱々しいハエであるか、
あるいはとうの昔に死んでいるかのようです。
あたかも悪魔に対するクリスチャンの戦いが
ほんの些細なことであるかのようです。

悪魔はその手下の小間使いたちと共に
インドやトルコやどこか遠くにいる、
と思ってはなりません。
悪魔はあなたのすぐ近くにいることを知っておきなさい。
悪魔は毎日、
あなたの周りや部屋や、通りなど、
あなたがいるところならどこにでもいるのです。
   
悪魔は、
私たちがキリストを深く理解するのを妨げ、
私たちがキリストよりも誰か他の友達を
頼ったり信じたりするようにさせる専門家です。

確かにキリストは
一本の指や一言の言葉で悪魔に勝ち、
激怒する悪魔を完全に粉砕することができます。
にもかかわらず、キリストは、
私たちをその仕事に用いたい、と思っておられます。

神様は、
質がよいとは言えない弱い「器」である
私たちクリスチャンを対置することで、
この傲慢で強大な「魂の敵」を侮蔑したいと思っておられます。
この器は、悪魔とくらべれば、嵐に対抗する火の粉のような存在です。
本来なら、嵐は火の粉をひと吹きで消すことができるはずです。
しかし主は、そのような弱い器を通して、
この尊大な敵に勝利し支配することを示されたいのです。
 
悪魔は自分に対して、
神様が「惨めな手段」(私たちクリスチャン)を対置することに苛立ち、
私たちを陶器のようにいっぺんに粉々に砕こうと、
一番恐ろしいやり方で私たちに襲いかかってきます。
ですから、そのような攻撃に対して、
神様の力によって自らを武装しましょう。
戦いは主のものであることをわきまえつつ。
 
次のようにして、悪魔は私たちに襲いかかってきます。
悪魔は自分の毒を元に「おいしい食事と薬」とを作り出し、
それとは反対に
健康によいはずの薬を元に「殺すような毒」を作り出します。
悪魔は悔い改めようとはしない者たちを
罪の中でいっそう不用心にし、
偽りの慰めにいっそう頼るように仕向けます。
その一方で悪魔は、
貧しく悲しんでいる心の持ち主たちを、
本来なら彼らの慰めであり喜びであるはずのことがらによって、
逆に心配するように仕向け、おびえさせます。
 
悪魔と言い争うのはやめなさい。
倦むことなく目を主に向けなさい。
 
神様が教会をお建てになると、
その傍らに悪魔はチャペルを建てるものです。

悪魔は次のような考えを吹き込むことによって
私の祈りを邪魔しようとしたものです。
「なぜお前は祈ろうとするのか。
お前は自分が誰で神が誰だか知らないのか。」
しかし、私は神様の恵みによって力づけられ、
悪魔が私に対して争ってくるときに、
もはや悪魔から身を避けたりはしなくなりました。
それどころか、
聖霊様のお助けによって
悪魔をその自分の剣によって追い出しました。
私はそのときこう言ったのです、
「悪魔よ、お前は「私が罪人だ」ということを理由に挙げて、
私から祈る勇気を奪おうとしている。
しかし、私が祈らなければならない理由は、
まさしく私がひどい罪人で、
神様の恵みと憐れみとを心から必要としている、
ということにあるのだ」。
 
自分を捨てて、「神様の右手」にしっかりとつかまっていなさい。
そうすれば、魂の敵はひどい誤算に陥ります。
つまり、悪魔が脱穀にかけようとした麦は実はからっぽだった、
ということになります。
こうなる理由は私が次のように言えるからです、
「私は自分の中に何も望まない。私の力は完全に主の中にある」。
このような態度をとるときに、私は
自分自身から、また私に属するあらゆるものから
完全にきれいにされています。
そして私はこう言えます、
「何をあくせくやっているのだ、悪魔よ。
お前は私の中にどんなよきわざがあるかを探っているのか。
そして私の聖さについて神様の御前で私を責めようというのか。
私にはよきわざも聖さもありはしない。
私にあるのは主の力だ。
それに対しては好きなだけ戦いを挑むがよかろう。
私は自分自身の中には罪も聖さも知らない」。
しかし、
もしもあなたがこのような防御のやり方をやめてしまう場合には、
悪魔は罪やよきわざを拠点にしてあなたをつかまえてしまいます。
もしもあなたが悪魔に屈従しその言うことを聞くならば、
悪魔はあなたにやりたい放題のことをします。
そのときあなたは神様を忘れ、見失ってしまいます。
そして「神様の右手」も他のあらゆることもなくしてしまうのです。

あるとき「魂の敵」が私のところへ来てこう言いました、
「マルティン・ルターよ、お前はひどい罪人だ。
お前は地獄に落ちるぞ」。
「ちょっと待て!」、と私は言いました、
「ひとつずつ物事は扱うべきだ。
私はひどい罪人だ。それはその通りだ。
もっともお前には私にそのようなことを言う資格はないわけだが。
私は自分が罪人であることを告白するよ。
しかし、だからなんだというのだ?」。
「そのためにお前は地獄に落ちるのさ!」。
「これは正しくない話だ。
私が罪人であるのは本当だ。
しかし、聖書にはこう書かれている、
「キリスト・イエスは罪人を解放するためにこの世に来られた」。
それゆえ、私も救われるのだ。
さあさっさとどっかに行くがいい!」。
こうして私は魂の敵をやりこめて、
それ自身の剣を利用して私のもとから追い払いました。
魂の敵は、
「ひどい罪人だ」と言うことで私を絶望に陥れる目論見が外れて、
怒り狂いながらも、すごすごと立ち去るほかありませんでした。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ヤコブの手紙 2章23節

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブの手紙 2章23節)

人間は信仰を通して自分の行いなしに義とされるのでしょうか。もちろん義とされます!もしもそれを信じたくなければ、モーセの教えを否定しなさい。モーセは、アブラハムが律法や律法の行いをする前に、アブラハムを救いの幸せに満ちた者と呼んでいるではありませんか。それは、アブラハムが自分の子を犠牲として捧げたからではなく(その子供はまだ生まれてもいませんでした)、アブラハムがよい行いをしたからでもなく、アブラハムに約束を与えてくださった神様を信じたからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヤコブの手紙 2章21節

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に捧げたときに、行いによって義とされたのではありませんか。(ヤコブの手紙 2章21節)

実から木のことが知られます。しかし実が木を育てるわけではありません。それと同じようにアブラハムは、自分の子を犠牲として捧げようとしたときには、既に義しい者でありました。そして御使いはアブラハムにこう言いました、「今私はあなたが神を畏れ愛していることを知りました」(創世記22章12節)。これは、「今あなたは神を畏れる者になった」という意味ではなく、「あなたが神を畏れていることを、あなたは自分の行いによって示した」という意味です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヤコブの手紙 1章12節

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。(ヤコブの手紙 1章12節)

苦難は私たちの信仰生活を知恵と御言葉の告白によって深め豊かなものとします。また苦難は私たちの希望を強め、キリストの王国を広めます。ですから次のように言うことにしましょう、「私は苦難を嘆いたり自慢したりせず、愛する神様が私に担うようにと与えてくださるすべてのことを忍耐強く担いたいと思います。神様が私をこのように大きくまた満ち溢れた善性と恵みへと召してくださったことを、私は心から神様に感謝したいと思います」。
(マルチン・ルター、宝石箱)


試練を耐え忍ぶ人は幸いです。(ヤコブの手紙 1章12節より)

私の友よ、
主を待ち望み、主の守りに安心して信頼しなさい。
もしもクリスチャンとしての信仰を鍛える試練が何もないなら、
どれほど私たちクリスチャンが、
自分の罪深さを悲しまない、
怠惰で、安逸を愛する者に成り下がってしまうか、
あなたもよくお分かりでしょう。
試練がなければ、私たちには、
ローマ法王の教会で起きたのと同じことが起きるでしょう。
そうです、
試練はクリスチャンの薬であり、
乳香であり、アロエであり、
あらゆる害虫や皮膚病や疫病や体の怪我や汚れや罪に対する、
解毒剤なのです。
こういうわけですから、
私たちは試練を軽んじたり、
気の向くままに選り好みしてはいけないのです。
私たちは試練を、
神様が送ってくださる通りに、
そのまま受け入れなければなりません。
そうすれば、試練は、
それがどんなに大きかろうが、
どんな種類のものだろうが、
私たちに祝福と益をもたらすものになります。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヤコブの手紙 1章2~4節

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。(ヤコブの手紙 1章2~4節)

聖徒たちにとって試練は、食べ物や飲み物よりも必要なものです。それは、彼らが畏れをもってへりくだり、神様の恵みにのみ頼ることを学ぶためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 13章14節

わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。(ヘブライ人への手紙 13章14節)

クリスチャンはこの世をたんなる「宿泊所」と見なしています。それは、ちょうど旅行者が、外国に滞在する際の宿を、たとえそれがどれほどよい所であったとしても、仮の住まいと見なし、自宅とは見なさないのと似ています。もしもクリスチャンがこの世でよい扱いを受ける場合には、彼らはそれに対して感謝します。しかし、もしも彼らの「宿泊所」が暗く寒く危険な場所に感じられるときには(こういうことがしばしばありますが)、彼らは、「これはじき終わる悪い夢にすぎず、あとでもっとよいものに変わるのだ」、と考えて自分を慰めるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 13章5~6節

金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」(ヘブライ人への手紙 13章5~6節)

自分が強いと思い込み、見捨てられたと感じたことがない者たちを、神様は一度も助けたことがありません。助けを必要とし、求めている人たちを、神様は決して見捨てたことがありません。聖霊様に助けを求めるのは怯えている魂だけです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 12章6節

なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、
鞭打たれるからである。
(ヘブライ人への手紙 12章6節)

一見すると神様は
クリスチャンにもクリスチャンではない人にも同じように接しておられ、
クリスチャンにはより悪いことが起こるようになさる
とさえ感じられることがあります。
 
しかし、神様は
クリスチャンを身内のものとして、
神をないがしろにする者を召使として
扱っておられるのです。
父親は息子を懲らしめることもありますが、
同時に息子にいつか継がせることになる宝を取り集めておくものです。
悪い不従順な召使は懲らしめを逃れることができますが、
そのかわり家から追い出されて、何も継がせてはもらえません。
  
まさにこうした理由から、
神様は、
神をないがしろにする者たちが何の妨げもなくやりたい放題にさせ、
御自分の愛する子供たちがこの世で辛く苦しい目にあうようになさるのだ
としか、私には思えません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヘブライ人への手紙 12章2節

「イエスを見つめながら」(ヘブライ人への手紙 12章2節より)

キリストは、
恐れおののき打ちひしがれた心の持ち主にとっての
喜びとなる素晴らしいお方です。
キリストは私を愛して、御自分を私のために与えてくださいました。
キリストは、苦しみや罪や死の只中にある人々を愛されるお方です。
私の愛する友よ!
これ以上すばらしく、また喜ばしいことを
人は口にすることができるでしょうか?

キリストを信じる者は、
貧しさの中で豊かさを感じ、
恥辱の中で光栄を感じ、
嘆きの中で喜びを感じ、
死の中で命を感じ取ります。
その人は、
これらすべてを神様の御言葉に密着した信仰の中で保ち、
これらすべてを神様から待ち望みます。

「安心しなさい。私は世に勝っています」。
キリストが世に対する勝利者だというのはまったく正当です。
それなのになぜ私たちは、
キリストに対してすでに敗北している世に対して、
あたかもそれが勝利者であるかのように錯覚し、
恐れ震えているのでしょうか?

「私たちの義や聖のゆえではなく、私たちの罪のゆえに、
キリストは死に渡された」という言葉を
まったくの真理として受け入れるところに、
クリスチャンの特別な技能と知恵があります。

キリストは私たちを背負い、御父様のみもとに運んでくださいます。

もしもあなたが強く無敵でありたいのなら、
主キリストがあなたがたの力であることを認めなさい。

他人の、すなわち、全世界の罪、その負債をすべて払うために、
御自分の上に引き受けてくださったときに、
主キリストは非常に苦しまれました。
「他人の罪」が罪のない心の持ち主である主を苦しめたのですから、
自分の罪が自身の上に降りかかってきた場合には、
そうでなくても絶望しやすい私たち人間はいったいどうなってしまうと、
あなたは思いますか?

信仰とは、キリストを真剣に絶えず見つめることです。
それは、罪と死を取り除き、
私たちに義と永遠の命と救いをもたらしてくださった
キリストのみに集中することです。

呪いを避ける唯一の道は、信仰であり、
強い信頼によってこう言うことです、
「イエス様、あなたは私の罪、私の呪いです」。
あるいはむしろこう言うことです、
「私はあなたの罪、あなたの呪い、あなたの死、
あなたへと向けられている神様の怒り、あなたの地獄です。
しかし、あなたは、
私の義、私の祝福、私の命、私の神様の恵み、私の天国です」。

キリストは傷つけられた良心を癒してくださる唯一のお方、
天国からの賜物を分けてくださる唯一のお方、
真の信仰を守ってくださる唯一のお方、
日々のそして永遠の御言葉そのものです。

私の心を支配しているのは、次のひとつのことだけです。
すなわち、愛する主イエス・キリストへの信仰です。
それは、
あらゆる霊的なことがらや神様の御心にかなうような、
昼夜私に浮かぶ考えの唯一の中心であり、始めであり、終わりです。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ヘブライ人への手紙 12章1節

すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、(ヘブライ人への手紙 12章1節より)

私には何度か次のようなことがありました。
私は、「かくかくしかじかの日に聖餐式に参加しよう」、と考えていました。
ところが、その日が来ると、
熱心さが消えうせたり、何か用事ができたり、
「自分は聖餐を受けるのにふさわしくない」、と感じたりして、
「聖餐を受けるのはあと1週間のばそう」、
と自分に言うほかありませんでした。
しかし、1週間たっても自分は相変わらず
聖餐を受けるにはふさわしくないままだったので、
また延期し、ということが繰り返しつづきました。
恵み深い神様はそんな私に、
これは悪魔のわなであることを教えてくださいました。
それで私はこう言いました、
「悪魔よ、その手に乗るものか。
私が聖餐にあずかるのにふさわしくなるためには、
まる1年もたってしまうだろう」。
こうして悪魔の策略から抜け出して、私は聖餐式に参加しました。
ときには普段は必ずする告解もせずに聖餐を受けることさえありました。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヘブライ人への手紙 11章24~26節

信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。(ヘブライ人への手紙 11章24~26節)

キリスト御自身が苦しまれたゆえに受難は非常に貴いものになりました。本来ならば人は、自分がこの賛美されるべき大いなる恵みにあずかるにはふさわしくない、と見なすべきところです。それゆえ、私はお願いします、愛する友よ!苦しみをおそれないように!殺されることさえもおそれないように!あなたたちは(天国の)真の共同相続人としてキリストと共に苦しまなければならないのです。私たちの救い主イエス・キリストが御自分で用意してくださった永遠の栄光に較べたら、この人生の苦しみは何ほどのものでしょうか?
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 11章6節

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。(ヘブライ人への手紙 11章6節)

神様が私たちに求めておられ、本物と認められる信仰は、
心から主イエス様に信頼することです。
イエス様は活ける神様の御子、私たちの愛する救い主です。
イエス様は、
私たちに対する言い尽くせないほど大きな愛のゆえに、
私たちの罪のために十字架で死んで、
私たちの義のために死者の中から復活されました。
信仰とは、キリストと、本来キリストのものであるあらゆる義とを、
自分に受け入れることです。
(中略)
このように、キリストを信じる者は、キリストを着ています。
(中略)
この信仰のみが、クリスチャンに喜びと幸せと安全を与え、
クリスチャンを救って、神様の子どもにします。
信仰のあるところには、力強く働きかける聖霊様もおられます。
さらに言えば、信仰とは、
私たちを変えて新しく神様から生む、という、
私たちの中でなされる神様のみわざなのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヘブライ人への手紙 11章4節

信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。(ヘブライ人への手紙 11章4節)

私たちは、神様を信じてあらゆるよいものを神様から求めつつ行動することよりも素晴らしいやり方で神様に従い仕え敬意を表することはできないし、これよりすぐれたささげものを神様にささげることもできません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 11章3節

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。(ヘブライ人への手紙 11章3節)

人は、聖書の「初めに神様は天と地を造られた」という最初の言葉の意味がわかるようになるまでは実は死んでいるのです。そして人は、たとえ千歳まで生きながらえたとしても、それを完全にわかるようにはならないでしょう。モーセのテキストは明瞭であり、真実を示しています、「神様は『光あれ』と言われました。すると光がありました」。つまり、御言葉は光より前に存在したのです。光は御言葉を通して存在したからです。それと同様に、御言葉は他のすべての被造物より前に存在しました。それら被造物は、モーセが書いているように、御言葉を通して存在したのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 11章1節

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙 11章1節)
   
「感情と信仰はまったく別物である」、
と私はしばしば言ってきました。
信仰は、
何も知らず、理性で理解できなくても気にせず、
目をつむって素直に御言葉に従います。
ところが、感情は、
理性で理解できることや、見聞きできることや、さわれるものに頼ります。
このように、感情と信仰とは正反対のものです。
ですから、救いに関しては、
感情から抜け出して、素直に神様の御言葉を聞きなさい。
それを心に入れ、感情に振り回されずに、
たとえあなたが自分の罪を感じている場合にも、
その罪はきれいに拭い取られていることを信頼し続けなさい。
どう感じているか観察したりせずに、
たとえ死や罪や地獄があなたを包囲している場合にも、
実はそれらはすでに敗北していることを堅く信じなさい。
なぜなら、
たとえ罪の感覚がまだ私たちの中に残っていても、
それは私たちを信仰へと追いやり、信仰を強める結果になるからです。
こうして私たちは、
あらゆる感情や理性的な考え方に反して、御言葉を自分のものとして受け入れ、
心と良心をいつもキリストに結びつけるようになるのです。
このように信仰は静かに罪や死や地獄を通り抜けて、私たちを導いていきます。
そしてようやく、私たちはあがないのみわざを自分の目でみるようになります。
そのときはじめて、自分たちが信じてきたこと、
すなわち、死やあらゆる不幸はすでに敗北していることを、
正しくまた完全に知るようになるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヘブライ人への手紙 10章39節、11章1節

しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙 10章39節、11章1節)

私たちは自分の心の中に罪の存在を依然として感じているため、罪が私たちから取り去られていないかのように見えることがよくあります。しかし、私たちは感情や感覚に頼るのを捨てて、単純に御言葉を手にとって、心に書き込み、信頼しなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 10章21~22節

更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブライ人への手紙 10章21~22節)

「すすぎ」は、キリストが御自分の血を流され、神様の前で「愛する神様、この罪人のために流した私の血が見えますよね」と言われたことを宣べ伝えています。もしもこのことを信じるなら、あなたもすすがれているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 10章12~14節

しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。(ヘブライ人への手紙 10章12~14節)

「聖化」とはイエス・キリストのみもとへと急いで、この方の富を自分のものとすることです。そのようなことは、私たちは自分の力では到底できません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 9章15節

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。(ヘブライ人への手紙 9章15節)

私は、たとえ天国が開かれているのを見たときに、「自分で藁を持ち上げるだけで天国に入れるよ」、と言われたとしても、私はそうしないでしょう。「私は自分の行いによって天国に入れるのだ」、などとおごり高ぶらないようにするためです。そのようであってはなりません!栄光は、私のものではなく、独り子を私のために与え、私の罪を拭い去り、私を救ってくださった神様のものだからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 9章13~14節

なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。(ヘブライ人への手紙 9章13~14節)

「キリストの血は私たちを、罪からきよめ、聖なる者にする」と信じることによって、私たちがキリストの血を敬わないならば、それはキリストの御名をひどく汚すことになるでしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者