タグは ‘義’

ペトロの手紙一 5章9節

信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。(ペトロの手紙一 5章9節より)

私は自分の中にある罪についても聖についても知りません。私の中には何もありません。まったく何もないのです。私が知っているのは、キリストの義と神様の力のみです。私がもっているのは、キリストが与えてくださるものです。悪魔は、罪についても聖についても自分のもとで人生の清算をしようとはしない魂の持ち主を見たときに、なんと思うでしょうか?それにできることといったら、何もない畑を耕すことだけです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヤコブの手紙 2章23節

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブの手紙 2章23節)

人間は信仰を通して自分の行いなしに義とされるのでしょうか。もちろん義とされます!もしもそれを信じたくなければ、モーセの教えを否定しなさい。モーセは、アブラハムが律法や律法の行いをする前に、アブラハムを救いの幸せに満ちた者と呼んでいるではありませんか。それは、アブラハムが自分の子を犠牲として捧げたからではなく(その子供はまだ生まれてもいませんでした)、アブラハムがよい行いをしたからでもなく、アブラハムに約束を与えてくださった神様を信じたからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

エフェソの信徒への手紙 1章7節

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。(エフェソの信徒への手紙 1章7節より)

これらの御言葉は、罪の赦しが神様の御前で完全に私たちの義であることを証しています。私たちは、私たちと争い私たちに私たち自身の罪とよい行いとを示す理性よりも遥か上方へと登り、自分の罪もよい行いも気に留めず、他の一切を無視してでもこれらの御言葉を一切の基盤とすることを学んでいかなければなりません。私たちは罪に対してもよい行いに対しても、恵みすなわち赦しをかかげて、あらゆる人間的な義や聖を取り除きます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 5章1節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤの信徒への手紙 5章1節)

見なさい!これが真にキリスト教的な「あがないと解放」です。すなわち、私たちは律法や律法による裁きや罪や死から、キリストのゆえに、贖われ自由にされたのです。それは、律法や死がもはや存在しなくなった、という意味ではなく、それらがまるで存在しないかのように無力になっている、ということです。律法が私たちを罪へと引きずっていくこともなければ、死が私たちを困惑させることもありません。信仰が私たちを義や永遠の命へと導いていくからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


クリスチャンは「ごくまれな鳥」です。
「クリスチャンの自由」の意味を
本当にわかっている人はごくわずかです。
多くの人は、
それが肉的な(欲求を満たす)自由であると誤解しています。
しかし、
本来それは良心と魂の自由なのです。
あなたは心や善悪の判断力が清くも義しくもありません。
ですから、もし清く義しくなり救われたいのなら、
王なるイエス・キリストを通してのみ、
自分が清く義しくなり救われることを、
あなたは告白しなければなりません。
あなたのために十字架で流してくださったキリストの血を通して、
あなたはそうした者になれるのです。
そして、それこそがあなたを自由にします。

クリスチャンはすべてにおいて自由な主人であり、
誰の僕でもありません。
一方では、
クリスチャンにはすべてに仕える義務があり、
すべての僕です。
 
神様との関係では、
あなたはすべてにおいて信仰を通して自由です。
しかし、
人々との関係では、
あなたは愛のゆえにすべての僕です。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ガラテヤの信徒への手紙 3章24節

こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章24節)

私たちが天国でモーセに出会うときに、モーセはこう尋ねることでしょう、「どうやってここに来ましたか。律法を破らなかったのですか」。そのときに私たちはこう答えます、「私たちは律法の光のもとではあまりに惨めでした。律法の要求は私たちを不安に陥れ、キリストへと追いやりました。キリストにあって私たちは、律法が要求しつつも実現できずにいたことをすべて、一挙に得ました」。そのときモーセはこう答えるでしょう、「あなたたちは私の言っていることを正しく理解しましたね」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 2章21節

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤの信徒への手紙 2章21節)

もしも私たちがキリストのゆえにのみ救われるとすれば、私は自分の功績で救いを得ようとしてはならないことを、告白し教えなければなりません。なぜなら、私はキリストの功績と自分の功績とを心の中で一緒にすることができないからです。私は両方に信頼することはできません。キリストのみわざか私の行いか、どちらか一方が退かなければなりません。私が言いたいのは、私たちはよい行いをしてはいけないということではなく、私たちは自分たちの行いに基づいて神様に認めていただこうとしてはいけないということです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤの信徒への手紙 2章21節より)

この御言葉はとくに迫力があります。
ここでパウロは人間の力や理性や知恵などには見向きもしません。
たとえそれらがどれほど偉大だったとしてもです。
それらが偉大であればあるほど、より容易に人は自分を欺くものです。
パウロははっきりこう言います、
「もしも義が律法によって手に入るのなら」。
たとえ神様の律法が助けに駆けつけても、
人間の理性なるものは、私たちを義とせず、
逆に義から引き離し、キリストを捨てます。
というのは、
かりに律法が義をもたらすなら、
キリストは無駄に死なれたことになるからです。
単純に、
キリストの死をあらゆる律法に対置してごらんなさい。
パウロと同様に、
十字架につけられたイエス・キリスト以外のことを
知ろうなどとは考えないようにしなさい。
そうすれば、
キリストの傍らで、すべてがその輝きを失ってしまいます。
そしてあなたは、
御言葉を正しく学んだ義で聖なる者となり、
あなたを清い御言葉と信仰の中で守られる聖霊様をいただきます。
ところが、
もしもキリストを見失ってしまうなら、
すべては無駄になってしまうのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ガラテヤの信徒への手紙 2章16節

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節)

もしも私たちが正しく明瞭に義認の教理1を理解しているならば、私たちには真の天の太陽があることになります。しかし、もしも私たちがこの教理を失うならば、私たちに残されるのは地獄の暗闇だけです。良心の平和を保証するこの教理が揺るがず傷つかずに存立し続ける限り、クリスチャンはこの世のあらゆる教えや支配者や法律を裁きさえする立場にあるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


正しいキリスト教の教えは、
自分はよい行いがひとつもできない罪人だと、
律法によって人に知らせることから始まります。
律法はこう言います、
「お前は悪い木だ。
お前が考えること、話すこと、行うことはすべて、神様に反抗している。
お前は自分の行いによっては、恵みを報酬として受け取ることができない。
お前は、どんなに努力してみたところで、
さらに悪いことを行うようになるだけだ。
なぜなら、
お前は悪い木であり、悪い実、つまり罪しか実らせないからだ。
信仰からでていないものはすべて罪だからだ」
(「ローマの信徒への手紙」14章23節)。
まずよい行いをし、次に恵みをその行いの報酬として受けようとするのは、
罪によって神様と和解しようと企て、神様を怒らせてしまうようなものです。
律法の教えによって、人が恐れを抱き、へりくだり、
自分の罪の大きさを本当に目にし、
自分自身の中には神様への愛をほんのわずかも見出さないようになった時、
はじめて人は、神様が御言葉において義であることを認めて、
「自分は永遠の死と滅びを受けるのが当然だ」、と告白するようになります。
キリスト教の教えは、
「己の罪を悔い、己を知りなさい」、
という説教によって始まるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


もしも救われたいのなら、
救いは行いのおかげではなくて、
私たちが御子を通して活きるようになるために
神様がその独り子を世に遣わされたおかげであることを覚えなさい
(ヨハネの手紙一 4章9節)。
御子は十字架につけられ、あなたのために死なれました。
御子は私たちの罪を御自分のからだで担い、十字架の木へと運ばれたのです
(ペトロの手紙一 2章24節)。
(中略)
律法は、罪人である私たちに対して罪を示し、おそれとへりくだりの心を起こし、
こうして私たちが義とされる用意を整えて、キリストの御許へと追い立てます。
神様は御言葉を通して御自分が優しい父親であることを知らせてくださいました。
神様は、私たちの行いなしに
(私たちは自分の行いによっては恵みの報いを受けることができないからです)、
キリストのゆえに、賜物として、
私たちに罪の赦しと義と永遠の命を与えたいと望んでおられます。
ただで恵みの賜物をすべての人に分け与えるのは、
賛美されるべき神様ならではの御性質なのです。
しかし、自分の行いに頼り、賜物を報酬として受け取ろうとする者は、
神様からその栄光を奪ってしまいます。
このような人々を信仰へ導くために、
神様はあらかじめ律法を与えなさったのでした。
それは、律法があたかも稲妻や雷鳴のように、
実に硬い「岩々」を恐れさせ、砕くためなのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節より)

神様は人間に対して怒りを鎮めてくださいました。
これは、人にとって高貴で偉大なことです。
神様の聖なる怒りを鎮めるためには、
モーセの律法や私たちの意志とは
まったく異なる仲介者が必要です。
さらに、彼らが「神の愛」と呼んでいる
あの類の恵みとも違うものが必要です。
私たちは、
信仰により心で受け入れたキリストという宝物を
自分のものとして所有しさえすればよいのです。
どれほどひどく自分が罪にまみれていることを
自覚している場合であっても、これは変りません。
このメッセージは含蓄に富んでいます。
律法の行いによってではなく、
キリストへの信仰によって義とされるということは、
空虚でも無力でもない御言葉です。
しかし、
自分の賢さを過信している人々は、
それを無力な言葉とみなし、
さっさとその前を素通りしてしまうのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ガラテヤの信徒への手紙 2章17節

もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。 (ガラテヤの信徒への手紙 2章17節)

パウロが言いたいのは次のことです。
私たちがキリストにあって義とされるのが本当だとしたら、
私たちは律法によって義とされるべき罪人ではありえません。
もしもそれが本当ではなく、逆に、
私たちは律法やその行いによって義とされなければならないとしたら、
私たちがキリストを通して義とされることはありえなくなります。
私たちは、
キリストを通しては義とされないのか、
それとも、
律法を通しては義とされないのか、
そのどちらか一方が間違っているのです。
しかし、
私たちはキリストを通して義とされるのであり、
律法を通してではありません。
これについては証拠を挙げることができます。
もしも人が義とされるために律法を守ることが必要だとしたら、
キリストにおいて義なる人々は実は義ではなく、
ほかにまだ人を義とする律法が必要になります。
すなわち、
もしもキリストを通して義とされた人々が、
さらに律法を通して義とされる必要があるのなら、
キリストは律法の設定者であり罪に仕える者にほかならなくなります。
その場合には、
キリストにあって義とされた人は、実は義とされておらず、
さらに律法の義が必要になります。
しかし、
私たちは本当にキリストにあって義とされているのです。
なぜなら、福音は、
人は律法ではなくキリストを通して義とされる、
と教えているからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

コリントの信徒への手紙二 5章21節

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(コリントの信徒への手紙二 5章21節)

十字架につけられたキリストを賛美し、自分自身には失望し、このように言うようにしなさい、「主イエス様、あなたは私の義です。私はあなたの罪です。あなたは本来私に属するはずのものを私から取り去り、本来あなたに属するはずのものを私に与えてくださいました。あなたは本来の御自分とは違う存在になり、代わりに私を本来の私とは違う存在にしてくださいました」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 15章1~2節

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。(コリントの信徒への手紙一 15章1~2節)

キリストを信じなさい。そうすれば、あなたは正しい道にいます。キリストにとどまりなさい。そうすれば、あなたは正しい方へと歩みます。終わりまでたゆまずにそれを続けなさい。そうすればあなたは救われます。「私たちが生き続ける限り、キリストの復活と王国にはこの地上に独自の道をもっている」ことを、パウロは私たちに教えようとしています。その道は、御言葉と見えないキリストに頼りきる信仰とによって見出され、罪や死に打ち勝ち、それらに代わって義や命をキリストを通して得るのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 11章6節

もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。(ローマの信徒への手紙 11章6節)

私たちの救いは、律法と福音の両方に基づくことはできません。私たちは、信仰を通して義とされ、その結果律法の義を失うか、あるいは、律法を通して義とされ、恵みと信仰の義を失うか、そのどちらかです。恵みを失い律法に頼ることは、恥ずべき不幸な喪失です。しかし、律法を失い恵みに頼ることは、それとは逆に、救いの幸せに満ちた喪失です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 4章18節、22節

彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。(ローマの信徒への手紙 4章18、22節)

聖書の読者は、
「アブラハムは神様を信じた」という御言葉から、
キリスト教における「義」とは何か、
明確に定義することを学びなさい。
義とは、
神様の御子に避けどころを求めること、
すなわち、
キリストを通して神様に心から信頼することです。
さらに、
神様に避けどころを求めることに、
キリストのゆえに義と認められることを加えましょう。
このふたつは、
キリスト教における義を完全なものとして提示します。
第一に、
心の信仰とは、
神様の与えてくださった賜物であり、
キリストを本当に信じることです。
第二に、
神様はいろいろな点で至らない私の信仰を、
私が信じるようになったイエス・キリストのゆえに、
完全な義と認めてくださいます。
 
私は
本当に自分が神様に愛されているのか疑ったり、
絶望したり、悲しんだりするし、
私の中にはまだ罪が染み付いています。
しかし、
これらの罪を、神様は、
私のキリストへの信仰のゆえに、
私の罪過とはみなされません。
なぜなら、
肉(肉体)の中に生き続ける限り、
罪は本当に私の中に存在しつづけるからです。
しかし、
ちょうどひなが親鳥の羽に守られているのと同じようにして、
私はキリストの羽の下に隠されており、
罪の赦しという、
とりわけ大きく私の上方に広げられている天の下に
安心して住まっているので、
神様は
私の中にまだ残っている罪を覆って赦してくださいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 4章5節

しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(ローマの信徒への手紙 4章5節)

信仰と、キリストと、恵みを受けること(人が神様に認められること)、
この三つは互いに結びつけて理解されるべきです。
信仰は
「キリストが共にいてくださるお方である」と理解し、
キリストを「自分のもの」として受け入れます。
さらに信仰は、
ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているように、
信仰の中にキリストがおられることを認めます。
このようにして心の中でキリストを信頼する人を、
神様は義とみなしてくださいます。
そしてこれは、
私たちが罪の赦しと義をいただける根拠であり報酬なのです。
神様はこう言われます、
「あなたは私を信じており、
あなたの信仰は、
私があなたに仲介者や大祭司として与えたキリストを、
ちゃんと理解しています。
それゆえに、あなたは義とされています」。
神様は、私たちを御自分の恵みの中に導いてくださいます。
すなわち、私たちを義と認めてくださいます。
それは、私たちがイエス様を信じているからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 3章10(後半)~12節

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。(ローマの信徒への手紙 3章10(後半)~12節)

神様は義や正しさや命や力を誰からも見出されません。神様がこれらすべてを私たちに与えてくださるのです。あなたに義や命や力や強さが欠けているときに、疑いにとらわれてはなりません。あなたは自分の悪さをより深く知れば知るほど、自分の目にあなた自身がより悪く映れば映るほど、それだけ速やかに神様はあなたに恵みを与えてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

使徒言行録 13章38~39節

だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。(使徒言行録 13章38~39節)

繰り返しますが、福音は恵みと罪の赦しを神様が保証してくださっていること以外のなにものでもありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

使徒言行録 3章23節

この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。(使徒言行録 3章23節)

「信仰による義」の教え[1]なしには、
聖霊様は私たちと共にいることはできないし、いたいとも望まれません。
聖霊様の働きは、キリストを輝かしく明示することだからです。
この信仰義認の教えを聴き入れないこの世は、その罰として、
洪水や戦争やそのほか地上の災害などによって苦しめられなければなりません。
一方、アベルはこの信仰義認の教えを信じていたために命を失いました。
同じ信仰のゆえに、聖徒は皆、死ぬことになりました。
私たちクリスチャンもまた
彼らと同じような目に遭うことを覚悟しておくべきでしょう。
世の激しい反対にもかかわらず、この信仰義認の教えは正しいのです。
しかし、それは世にとっては、いつまでたっても「躓きの石」のままです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
  
[1] イエス様が私の罪のために十字架で死んでくださった、という信仰によって神様に義と認めていただけるという教えのことです。

ヨハネによる福音書 19章34節

しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネによる福音書 19章34節)

主イエス・キリストのわきから流れている血こそは、私たちをあがないだすために必要な、私たちの罪を完全に帳消しにする「値段」です。故なく受けた苦しみと死によって、また十字架で流された聖なる尊い血によって、愛する主イエス・キリストは、私たちのすべての罪の負債を支払ってくださり、自分自身の罪のゆえに永遠の死と滅びに支配されていた私たちをあがないだしてくださいました。このキリストの血は神様のみもとで、私たちを守るために休みなくこう叫び続けています、「憐れんでください!憐れんでください!赦してください!赦してください!お父様!お父様!」。このようにしてキリストの血は、私たちのために、神様のあわれみと罪の赦し、また義と救いをそなえてくださったのです。父なる神様は今、神様と私たちの仲介をしてくださるこの愛する御子の叫びと私たちのためのとりなしの祈りとを聴いてくださり、弱々しい罪人である私たちをあわれんでくださいます。私たちはすみずみまで罪にまみれているにもかかわらず、神様は私たちの中にひとつの罪も見出しません。神様は、愛する御子イエス・キリストの比類なき尊い血だけを見ておられるからです。そして、この血によって私たちは清くすすがれているのです。この血こそが、黄金の恵みの衣装です。この血によって、私たちはおおわれています。この血に包まれて、私たちは神様の御前に進み出ます。それゆえ、神様は私たちを、あたかも義と聖と無垢に満ちた愛する御子であるかのようにみなしてくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 10章27~28節

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネによる福音書 10章27~28節)

あなたがこの良い羊飼いを知っているときには、悪魔や死から守られてこう言うことができます、「私が神様の戒めを守らなかったのは確かです。しかし、私は愛する主イエス・キリストの羽の保護の下へと逃げ込みます。神様の御前において、主は愛する私の羊飼い、ビショップ、仲介者であられ、御自分の無垢によって私を覆って守り、また私に御自分の義を賜ってくださる、と私は信じます」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 23章37節

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(マタイによる福音書 23章37節)

神様の裁きに耐えようとする者にとっては、信じて、恵みのはたらきを心の中で経験するだけでは足りません。というのは、その人は、自分自身の中から見出だせるような、どのようなことにも頼ることができないからです。その人はキリストの義に頼らなければなりません、そして、神様の裁きの時に、それがその人の守りでなければなりません。なぜなら、キリストの義は、あらゆる栄光の中にあって、神様の御前に永遠にありつづけるからです。詩編にこう書かれている通りです、「この方の義は永遠にありつづけます」(詩編111編3節)。

このことに頼る人は、そっと隠れてこの義の守りの中にもぐりこみ、この義が守ってくれることを疑わずに信じます。そしてそのとおりになるのです。その人は守りを得ます、しかしそれは、自分自身や自分の信仰のおかげではなく、その人が避けどころを求めた、キリストとキリストの義のおかげなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 3章15節

イエス様は答えて彼(洗礼者ヨハネ)に言われました、「今はそうさせなさい。すべての義を満たすのはこのように私たちにふさわしいからです」。そのときヨハネは(イエス様が彼から洗礼を受けるのを)許しました。(マタイによる福音書 3章15節)

「あらゆる義を満たすこと」は、正しくあろうとはしないことであり、自分のなかに何かよいものが見出せるなどと信じずに、自分を罪人として告白することです。これは二重の義です。まず、魂はキリストへの信仰によって義です。次に、その人は自分を義とは見なさず、汚らしいだけの罪人と見なしています。もともと私たちは皆そのような者なのです。肉が塵になるまで罪は肉にとどまっているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者