新約聖書
エフェソの信徒への手紙 1章7節
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。(エフェソの信徒への手紙 1章7節より)
これらの御言葉は、罪の赦しが神様の御前で完全に私たちの義であることを証しています。私たちは、私たちと争い私たちに私たち自身の罪とよい行いとを示す理性よりも遥か上方へと登り、自分の罪もよい行いも気に留めず、他の一切を無視してでもこれらの御言葉を一切の基盤とすることを学んでいかなければなりません。私たちは罪に対してもよい行いに対しても、恵みすなわち赦しをかかげて、あらゆる人間的な義や聖を取り除きます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 6章6節
御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。(ガラテヤの信徒への手紙 6章6節)
子供たちを忠実に教育する熱心で正しい教師は、真の賞賛に値します。
私も、説教職や他の仕事を失う場合には、
学校や幼稚園の教師になりたいほどです。
なぜなら、教師の仕事は、説教職と並んで、
すべての仕事の中で一番有益で、偉大で、最高の使命だからです。
(中略)
他の人の子供たちを忠実に教育するのは、
この地上で最も素晴らしい天職です。
ほとんどの親が自分の子供の教育にさえ無関心な今の世の中では、
なおさらそうです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ガラテヤの信徒への手紙 5章4節
律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。(ガラテヤの信徒への手紙 5章4節)
「自分が罪人である」ことを告白しない罪人にはならないよう、神様が私たちを守ってくださいますように!もしも私たちが罪に陥るのを神様がお許しになる場合には、私たちが「それは罪でした」と告白したあとで、神様が私たちに罪の赦しを与えてくださるような、そのような罪に落ち込ませてくださいますように!私たちが「それは罪でした」とは告白しないで、逆にそれを「義」と見なすような、そのような罪には私たちを落ち込ませなさいませんように!こういう罪に対しては、神様は私たちに赦しを与えることがありえませんから。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 5章1節
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤの信徒への手紙 5章1節)
見なさい!これが真にキリスト教的な「あがないと解放」です。すなわち、私たちは律法や律法による裁きや罪や死から、キリストのゆえに、贖われ自由にされたのです。それは、律法や死がもはや存在しなくなった、という意味ではなく、それらがまるで存在しないかのように無力になっている、ということです。律法が私たちを罪へと引きずっていくこともなければ、死が私たちを困惑させることもありません。信仰が私たちを義や永遠の命へと導いていくからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
クリスチャンは「ごくまれな鳥」です。
「クリスチャンの自由」の意味を
本当にわかっている人はごくわずかです。
多くの人は、
それが肉的な(欲求を満たす)自由であると誤解しています。
しかし、
本来それは良心と魂の自由なのです。
あなたは心や善悪の判断力が清くも義しくもありません。
ですから、もし清く義しくなり救われたいのなら、
王なるイエス・キリストを通してのみ、
自分が清く義しくなり救われることを、
あなたは告白しなければなりません。
あなたのために十字架で流してくださったキリストの血を通して、
あなたはそうした者になれるのです。
そして、それこそがあなたを自由にします。
クリスチャンはすべてにおいて自由な主人であり、
誰の僕でもありません。
一方では、
クリスチャンにはすべてに仕える義務があり、
すべての僕です。
神様との関係では、
あなたはすべてにおいて信仰を通して自由です。
しかし、
人々との関係では、
あなたは愛のゆえにすべての僕です。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
ガラテヤの信徒への手紙 4章6節
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。(ガラテヤの信徒への手紙 4章6節)
人は、「自分の罪が赦されている」ことだけではなく、また「自分が神様の子供であり、確実に救いに与っており、喜びと信頼にみちた心で神様を「愛するお父さん」とお呼びすることができ、そのようなお方として神様に祈れるのだ」ということを、揺るがず疑わずに信じるときに、神様はこのような叫びを知ってくださいます。これについて私たちは、自分の命に対する確信よりもさらに大きな確信、この慰めを捨てたり疑ったりするくらいならどんな死に方でも喜んで受け入れる用意があるほどの確信を持たなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 4章4~5節
しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。(ガラテヤの信徒への手紙 4章4~5節)
もしもあなたにとって自分が神様の子供であることが、信じられないほど大きなことであると感じられるなら、愛する友よ、他でもないあなたが神様の子供になるために、キリストはこの世に来られて、女から、律法の下に生まれてくださったことに思い起こしなさい。神様は、これよりも偉大なことを行うことがおできになったでしょうか?あなたの魂は自由に解き放たれて、神様とキリストのこととを喜ばないでしょうか?あなたがうれしそうに神様の愛への賛美を歌っていられなくするような苦難や不幸などが、まだありうるのでしょうか?
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章9節
このように信仰による者は信仰者アブラハムと共に祝福を受けるのです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章9節)
(中略)
「このアブラハムは信仰によって、
自分にも、自分と同じように信じている者皆にも、義なる祝福を得た」、
と聖書は証しています。
もしもアブラハムのように信じるのなら、全世界が祝福されるのです。
言い換えれば、自分自身が義と認められるのです。
祝福とは、福音を宣べ伝えて教え、キリストを告白し、
すべての国民にキリストについて知らせることにほかなりません。
そして、この牧師としての奉仕(説教職)は
新約聖書の教会の真のささげものです。
この奉仕は、
説教とサクラメントによって、
ざんげと罪の赦しの宣言によって、
慰めによって、
アブラハムが自分の祝福としてもっていた
「恵みの御言葉」を教えることによって、
祝福を分けてくれます。
この「恵みの御言葉」をアブラハムは信じ、祝福を受けました。
私たちもそれを信じて、祝福をいただけます。
この祝福は、世に対してではなく、神様の御前における栄光です。
なぜなら、
「私たちの罪は赦されており、
私たちは神様に喜んで受け入れていただける存在になっています。
神様は私たちの御父様、私たちは神様の子です。
神様は御自分の子たちに怒りたいとは思われません。
逆に、罪や死やあらゆる悪から私たちを救い出したいと望んでおられ、
私たちに義と命と永遠の救いを贈ることを望まれている」、
ということを私たちは聴いているからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ガラテヤの信徒への手紙 3章27節
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章27節)
私たちの服は、アダムの皮膚、死の衣装、罪の服、です。言い換えれば、私たちは皆、罪の支配下で屈従を余儀なくされています。私たちは恐るべきほど盲目で無知であり、神様を軽んじ神様に怒っています。その上、私たちは悪い欲望や汚れや貪欲などに満ちています。この服、すなわち、私たちの罪の性質を、私たちはすでに受胎のときにアダムから受けたのです。私たちはそれをすべての行いと共に脱ぎ去らなければなりません。しかし、それは服を代えることによっては成功しません。どんな律法や行いによってもだめです。それが実現するのは、パウロが「キリストにあって洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたのです」と言っている通り、洗礼における新しい誕生と新しい変化によってです。
キリストは、律法でも、律法を与える者でも、行いでもありません。キリストは、天のお父様が私たちを義とし活きる者とし贖う方として私たちに贈ってくださった、言葉では表せない神的な贈り物です。「キリストを着る」ことは律法や行いに身を包むことではなく、言いようもなく素晴らしい贈り物、すなわち、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、つまりキリスト御自身を着ることなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章26節
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章26節)
主イエス様がペトロに、「私は誰か」、と尋ねられたときに、
ペトロはこう答えました、「あなたはキリスト、活ける神様の御子です」
(マタイによる福音書 16章15節)。
これをキリストは真正な信仰告白とお認めになり、
この信仰告白の上に、
ローマ法王の教会ではなく、御自分の教会を建てることを望まれました。
この教会は非常に強い信仰のゆえに、地獄の門も最強の悪魔もかないません。
なぜなら、神様の教会は、つまり主の聖なる特別な民は、
「キリストこそ神様が祝福された御子である」、
という真心の信仰の他には、どんな基ももっていないからです。
神様の御子を信じる者は、すでに新しく生まれています。
その人は、自分が神様の子どもであり、
聖なる教会と神様の民の一員であり、
天の御国とその宝を継ぐ者であることに関して、
素晴らしい証拠の印を所有しています。
そのような人は、揺るがぬ救いの基をもっており、
悪魔の攻撃から守られています。
パウロも、「これこそ、救いをもたらす真の信仰です」、と告白しています、
「あなたは自分の口で、「イエス様は主である」、と告白し、
自分の心で、「神様がイエス様を死者たちの中からよみがえらせた」、
と信じるならば、救われます」(ローマの信徒への手紙 10章9節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ガラテヤの信徒への手紙 3章26~27節
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章26~27節)
福音にふさわしいかたちでキリストを上に着ることは、律法や行いを着込むことではなくて、想像もできないほど大きな賜物、すなわち、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、さらにはキリスト御自身をも着ることです。「洗礼はキリストを着ることであり、たんなる外的なしるしではない」、とパウロは教えています。キリスト御自身が私たちの服です。それゆえ、洗礼は本当に力があり、すばらしいことなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章25節
しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。(ガラテヤの信徒への手紙 3章25節)
詩編32編や「ローマの信徒への手紙」4章で言われていることは、まさしく的を得ています。すなわち、神様が罪にお定めにならない人はさいわいなのです。聖パウロは、「このように神様が罪にお定めにならないのは、キリストを信じている者たちに対してのみであり、自由意志や人間の性格やその行いのゆえではないのです」、と説明します。例としてパウロはアブラハムをあげています。アブラハムが自分の種(つまり子孫)に関する神様の約束を信じたとき、この信仰が義と認められたのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章25~26節
しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章25~26節)
キリストは、人間性を身にまとって、時間の世界に踏み入り、律法をあらゆる裁きと共に満たし、御自分の死によって、信仰を通してキリストの恵みのみわざを自分の宝物としている人たちを、罪や永遠の滅びから解放しました。ということは、もしもあなたがキリストとキリストのみわざとを見つめているならば、あなたはもはや律法の下にはいないことになります。なぜなら、キリストは、時が満ち世にあらわれて、律法の要求を完全に満たしてくださったからです。いったん律法が満たされた以上、私たちはもはや律法の厳しい監視の下にはいないのです。それで私たちは、御霊により憐れみ深く私たちを支配してくださるキリストの中で、安心し喜んで生きていくことができるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章24節
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章24節)
私たちが天国でモーセに出会うときに、モーセはこう尋ねることでしょう、「どうやってここに来ましたか。律法を破らなかったのですか」。そのときに私たちはこう答えます、「私たちは律法の光のもとではあまりに惨めでした。律法の要求は私たちを不安に陥れ、キリストへと追いやりました。キリストにあって私たちは、律法が要求しつつも実現できずにいたことをすべて、一挙に得ました」。そのときモーセはこう答えるでしょう、「あなたたちは私の言っていることを正しく理解しましたね」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章10~11節
律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章10~11節)
「義とされるためには律法が必要だ」と教える者は、キリストやキリストの恵みのみわざを否定して、神様を嘘つきにしてしまいます。なぜなら、律法はキリストについての約束を強く支え、「キリストは律法ではなく、恵みの王様である」ことを予言したからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章8~10節
聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。(ガラテヤの信徒への手紙 3章8~10節より)
真のクリスチャンは、人々が「自分たちは何ほどの者でもなく、キリストがすべてにおいてすべてである」ことを知るようになることを目的として、キリストを賛美し宣教するときに、他のどのような行いよりも立派な行いをしています。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 3章6節
それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。 (ガラテヤの信徒への手紙 3章6節)
アブラハムのように
神様の御言葉を信じる者は皆、神様の御前で義です。
なぜなら、
その人には神様に栄光を帰する信仰があるからです。
信仰は、
この世のいかなるものも殺すことができなかった
「理性」という名の怪物を死に至らせます。
アブラハムは、
「年老いた不妊の妻サラを通して子孫を起こす」
という約束を彼に与えてくれた神様の御言葉への信仰によって、
理性を殺しました。
アブラハムの理性は、
すぐにはこの御言葉を素直に聴き入れようとはせずに、
心の中で信仰に対して戦いを挑んだことでしょう。
そして、
もう90歳にもなっている、しかも不妊のサラが
男の子を産むなどというのは、
笑ってしまうほど愚かで不可能なことだと思ったでしょう。
しかし、
アブラハムの信仰は理性に対して勝利を収め、
まわりに害を撒きちらすこの一番やっかいな「神様の敵」を殺しました。
それと同様に、
義なる人たちは皆、
信仰という秘められた世界へと足を踏み入れて、
理性を殺してこう言います、
「理性よ、お前は愚かだ。
神様に属する人たちのことをお前は全然理解していない。
もうこれ以上私と争うな。
黙っていろ。
批判せずに、神様の御言葉を聴き、それを信ぜよ」。
こうして義なる人たちは、
信仰によって全世界よりも強大なこの怪物を殺します。
そうして彼らは、
神様にあらゆるものなかで最も喜ばしいささげものと礼拝をささげるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ガラテヤの信徒への手紙 3章2節
あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。(ガラテヤの信徒への手紙 3章2節)
この証によってパウロは、
ガラテヤの信徒たちが御霊を受けたのは、
律法の行いによるのではなく、
福音の説教を通してであった、
という明らかな体験を
彼ら自身否定できなくなるようにしました。
パウロはこう言っているのです、
「あなたがたは、
律法を通して御霊を受けたとは言えないはずです。
律法の下で律法の行いをしていたとき、
あなたがたは聖霊様を一度も受けてはいなかったのですから。
あなたがたがまだ何の行いもせず実を結ばなかったときに、
信仰の説教である福音があなたがたのもとにやってきました。
それを信仰をもって聴くことを通して
あなたがたは聖霊様をいただいたのです。
というのは、
福音書記者ルカが(使徒言行録10章44節および19章6節)の中で、
聖霊様はペトロやパウロの説教の働きによって
御言葉を聴いた人々の上に来てくださり、
御霊を受けた人々はさまざまな賜物をいただき、
異言で話すようにもなった、
と証しているからです。
そういうわけですから、
あなたがたが何かよいことをしたり
福音の働きによって何か実を結んだりするよりも前の時点で、
聖霊様があなたがたに
信仰をもって聴くことを通してのみ与えられているのは、
明らかです」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ガラテヤの信徒への手紙 2章21節
わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤの信徒への手紙 2章21節)
もしも私たちがキリストのゆえにのみ救われるとすれば、私は自分の功績で救いを得ようとしてはならないことを、告白し教えなければなりません。なぜなら、私はキリストの功績と自分の功績とを心の中で一緒にすることができないからです。私は両方に信頼することはできません。キリストのみわざか私の行いか、どちらか一方が退かなければなりません。私が言いたいのは、私たちはよい行いをしてはいけないということではなく、私たちは自分たちの行いに基づいて神様に認めていただこうとしてはいけないということです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤの信徒への手紙 2章21節より)
この御言葉はとくに迫力があります。
ここでパウロは人間の力や理性や知恵などには見向きもしません。
たとえそれらがどれほど偉大だったとしてもです。
それらが偉大であればあるほど、より容易に人は自分を欺くものです。
パウロははっきりこう言います、
「もしも義が律法によって手に入るのなら」。
たとえ神様の律法が助けに駆けつけても、
人間の理性なるものは、私たちを義とせず、
逆に義から引き離し、キリストを捨てます。
というのは、
かりに律法が義をもたらすなら、
キリストは無駄に死なれたことになるからです。
単純に、
キリストの死をあらゆる律法に対置してごらんなさい。
パウロと同様に、
十字架につけられたイエス・キリスト以外のことを
知ろうなどとは考えないようにしなさい。
そうすれば、
キリストの傍らで、すべてがその輝きを失ってしまいます。
そしてあなたは、
御言葉を正しく学んだ義で聖なる者となり、
あなたを清い御言葉と信仰の中で守られる聖霊様をいただきます。
ところが、
もしもキリストを見失ってしまうなら、
すべては無駄になってしまうのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ガラテヤの信徒への手紙 2章20節
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤの信徒への手紙 2章20節)
私の心を支配しているのは(当然そうあるべきですが)私の主イエス・キリストへの信仰です。キリストこそ、夜であれ昼であれ、あらゆる霊的かつ神的な思考の中心であり、始点であり、終点なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ガラテヤの信徒への手紙 2章16節
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節)
もしも私たちが正しく明瞭に義認の教理1を理解しているならば、私たちには真の天の太陽があることになります。しかし、もしも私たちがこの教理を失うならば、私たちに残されるのは地獄の暗闇だけです。良心の平和を保証するこの教理が揺るがず傷つかずに存立し続ける限り、クリスチャンはこの世のあらゆる教えや支配者や法律を裁きさえする立場にあるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
正しいキリスト教の教えは、
自分はよい行いがひとつもできない罪人だと、
律法によって人に知らせることから始まります。
律法はこう言います、
「お前は悪い木だ。
お前が考えること、話すこと、行うことはすべて、神様に反抗している。
お前は自分の行いによっては、恵みを報酬として受け取ることができない。
お前は、どんなに努力してみたところで、
さらに悪いことを行うようになるだけだ。
なぜなら、
お前は悪い木であり、悪い実、つまり罪しか実らせないからだ。
信仰からでていないものはすべて罪だからだ」
(「ローマの信徒への手紙」14章23節)。
まずよい行いをし、次に恵みをその行いの報酬として受けようとするのは、
罪によって神様と和解しようと企て、神様を怒らせてしまうようなものです。
律法の教えによって、人が恐れを抱き、へりくだり、
自分の罪の大きさを本当に目にし、
自分自身の中には神様への愛をほんのわずかも見出さないようになった時、
はじめて人は、神様が御言葉において義であることを認めて、
「自分は永遠の死と滅びを受けるのが当然だ」、と告白するようになります。
キリスト教の教えは、
「己の罪を悔い、己を知りなさい」、
という説教によって始まるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
もしも救われたいのなら、
救いは行いのおかげではなくて、
私たちが御子を通して活きるようになるために
神様がその独り子を世に遣わされたおかげであることを覚えなさい
(ヨハネの手紙一 4章9節)。
御子は十字架につけられ、あなたのために死なれました。
御子は私たちの罪を御自分のからだで担い、十字架の木へと運ばれたのです
(ペトロの手紙一 2章24節)。
(中略)
律法は、罪人である私たちに対して罪を示し、おそれとへりくだりの心を起こし、
こうして私たちが義とされる用意を整えて、キリストの御許へと追い立てます。
神様は御言葉を通して御自分が優しい父親であることを知らせてくださいました。
神様は、私たちの行いなしに
(私たちは自分の行いによっては恵みの報いを受けることができないからです)、
キリストのゆえに、賜物として、
私たちに罪の赦しと義と永遠の命を与えたいと望んでおられます。
ただで恵みの賜物をすべての人に分け与えるのは、
賛美されるべき神様ならではの御性質なのです。
しかし、自分の行いに頼り、賜物を報酬として受け取ろうとする者は、
神様からその栄光を奪ってしまいます。
このような人々を信仰へ導くために、
神様はあらかじめ律法を与えなさったのでした。
それは、律法があたかも稲妻や雷鳴のように、
実に硬い「岩々」を恐れさせ、砕くためなのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節より)
神様は人間に対して怒りを鎮めてくださいました。
これは、人にとって高貴で偉大なことです。
神様の聖なる怒りを鎮めるためには、
モーセの律法や私たちの意志とは
まったく異なる仲介者が必要です。
さらに、彼らが「神の愛」と呼んでいる
あの類の恵みとも違うものが必要です。
私たちは、
信仰により心で受け入れたキリストという宝物を
自分のものとして所有しさえすればよいのです。
どれほどひどく自分が罪にまみれていることを
自覚している場合であっても、これは変りません。
このメッセージは含蓄に富んでいます。
律法の行いによってではなく、
キリストへの信仰によって義とされるということは、
空虚でも無力でもない御言葉です。
しかし、
自分の賢さを過信している人々は、
それを無力な言葉とみなし、
さっさとその前を素通りしてしまうのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)